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第16話 『 うれしい電話 』

つい先月、東京と京都で個展が終了したと思ったら、11月の下旬から12月の上旬にかけて今度は福岡で個展が開かれることになった。福岡展の出し物はゴールデンウィ−クに大阪で展示したものとほぼ同じで、再開発の為壊された同潤会アパートを撮った「代官山17番地」、若者の笑顔を集めた「PEACE」、年齢の枠をはずして子供、若者、年配の人達の街で見かけたポジティブな一瞬をスナップした「静かなシャッター」の3本立てだ。代官山のアパートはもう撮れないが、他の2テーマはいまだ撮り続けていて進化を見せている。特に「静かなシャッター」は随分新作が増えてきた。福岡展は大阪展で使った同一プリントを使っても差し支えなかったが、そこは写真家の良心が許さず、新作を出来るだけプリントすることにした。残念ながら僕の好きだったアグファのクラシックという印画紙がなくなってしまったので、イルフォードのウォームトーンを使うことにした。僕の写真は純黒調より優しい色調の印画紙がより向いている。RCに較べるとバライタ印画紙は手間がかかるが、厚さ、黒の深み、表面の質感など優れた点が見逃せない。

10年程前、デジタルの黎明を尻目に僕は自分の暗室を充実させたことがあった。ライツの引き伸ばし機フォコマート、ゾーンVIの印画紙水洗器、サンダースのイーゼル、コダックの暗室ランプ、シールのドライマウント機、セスコライトのバット。みな欧米製で一度買ったら一生使える良く出来たものばかりを揃え、日本製品はタイマーしかなかった。さてプリントのペースは朝から夕方まで暗室に入っても一日10枚が僕の限度で、仕事の合間を縫って一週間かかって35枚の新作「静かなシャッター」のプリントをやっとのことで完成させた。これで大阪展とは違った印象が出せる筈だ。福岡に送る手続きを整えるとやっと肩の荷がおりて気持ちが落ち着いた。

そんな一安心したある日、修理家の田鹿さんから電話があった。「ハービーさんからお預かりしているM3,12月中になんとか修理完成させますから…。」 実は数ヶ月前、銀一カメラのウインドを覗いていたら委託品の綺麗なM3が目に止まり、触っているうちにもう一台あってもいいかと思い始めた。というのはMシリーズの中でM3が最も精密感があり、使って満足、見て誇らしいモデルだからだ。これを買えばもう一台が壊れた時にすぐにスペアとして使えるし、シリアルナンバーを見ると最終ロットなので前期、中期との個体差が楽しめるだろうと総てを正当化し、即断して買ってしまった。その足で田鹿さんの工房に向かい修理をお願いしたのだ。この田鹿さんからの電話で僕は本当にライカが好きなんだと改めて思った。というのは12月中にこのM3が戻ってくると知ると、僕は嬉しくて急にそわそわとしだし、楽しみで心を膨らませるという、大いなる高鳴りを感じたからだ。どの様に調整されて戻ってくるのだろうか。巻き上げの感触は、シャッター音は…。この嬉しさは一体なんだろう。新しく増えたプリントを展示出来、気に入ったライカが増え、写真漬けの僕はすごく幸せな人間だなと実感した。そして、この一瞬のときめきをまるで、クリスマスプレゼントを待ちこがれる子供の様に何よりも貴重な感情として心ゆくまで噛みしめた。