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第20話 『 素顔 』

やっと爽やかな春がやってきた。4月の晴れやかさは、なににも代え難い生命力に満ちている。僕の家の傍を流れる目黒川には、今年も、一か月限定のぼんぼりが何キロにも渡って設置された。夜はこのぼんぼりにあかりが灯り、ピンク色の光を放つ。これを見ているとすごく平和な気分になる。「あー、春がやってきた」。 やっと長い冬から抜け出でた幸福感、安心感がこころの隅々にまでみなぎってくるのだ。さて、僕の風邪は全治するのに一か月近くもかかってしまった。熱が下がった後の数週間も、頭はぼーっとするし、体はだるいでとても仕事が出来る状態ではなかった。延期してもらった撮影をここ数日やっとこなせるようになった。

さて、先月買おうかと迷っていたライカ M4 ブラックペイントはやはり購入に至った。このM4はタイミング良く、風邪で寝込んでいた間、修理家の田鹿さんのところに預けられていた。何週間後に彼から「修理出来ましたよ。」という電話をもらった日、僕は居ても立ってもいられず、まだ重い体をひきずり、工房のある銀座まで受取りに行った。カメラを手中に包み込んだ時の感激はひとしおだった。ゴリゴリしていた巻き上げは絹の様になめらかになり、ガツガツとぶつかる様だったシャッター音は 1/60 秒と1 /125 秒で吸い込むような音に変わっていた。さすがである。家にたどり着き、この M4 を寝床の中で手に取って何度もシャッターを切りファインダーを覗いたりしていると、一日も早く風邪から立ち直り、このカメラと共に再び外に出て羽ばたこうという新たな勇気が湧いてきた。正に救いの神に値するカメラだった。かなり快方に向かった頃、テレビではフィギア・スケートの国際選手権、そしてメルボルンでの世界水泳の模様がしきりに放映されていた。受賞式やインタビューの時、選手たちの素顔がふと見られる瞬間が何度かあった。緊張した演技の時とは明らかに違う素顔は見ていて共感を呼ぶ。努力を積み重ねてきた者だけが持てる自信に裏付けされた美しい表情だった。素顔といえば昨年、シンクロナイズド・スイミングの日本代表選手11人を撮影する仕事をテレビ局からいただいた。撮影のテーマは選手達の普段では見られない素顔を引き出すことだった。「むき身の表情を是非ハービーさんの腕ですくい取って欲しいんですよ!」テレビ局のプロデューサーが僕に繰り返し説明した。僕のもっとも得意とする分野だ。正に適材適所という他にない人選だ。

彼女達が練習するプールの近くの一室に仮設スタジオをもうけ撮影に臨んだ。初めて彼女達をまじかで拝見したが、彼女達の化粧を落とした素顔はとても可愛く綺麗だった。このまま芸能界に入っても良いんじゃないかと思わせる美人達もいた。撮影の間、彼女達は僕のくだらないギャグにつき合ってくれ、レンズに向かって快い笑顔を見せてくれた。その結果、僕の撮った写真は好評で、大きなポスターとなってと東横線渋谷駅に所狭しと貼られたり、またテレビ朝日の「報道ステーション」の放送中のスタジオの背景として、また、大会のプログラムの中に使われた。スケートでも水泳でも野球でも人生をかけた試合中の選手の研ぎ澄まされた表情は迫力に満ちている。しかし、アスリート達の素顔にさらなる現実を見る思いがするのも確かだ。見応えのある素顔を持っている人は同時に繊細な素晴らしい内面をも持っているのかも知れないし、「飾らなくても美しい」 は本物だけが持つ一面なのかも知れない。僕はやはり、素顔を撮るのに情熱を燃やす写真家だ。春の訪れと共に風邪も直ったことだし、有名無名を問わず人々の飾らぬ、しかし、美しい一瞬を撮り続けたいとさらなる闘志を燃やしている。