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ハービー山口「 雨の日 」 東京 2005
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第35話 『 自分の写真の価値 』

僕だけに限ったことではないだろうが、長い間写真を撮り続けていると、ふと、自分が生産する写真にどれだけの価値があるんだろうと考える時がある。先人達がすでに撮るべきものは撮ってあり、その作品は歴然として写真集になっていたり美術館に永久コレクションになっている。いまさら自分が撮ったからといっても、「繰り返し」な行為を行っているのに過ぎないのではないだろうか…。
 すでに下町をはじめとする市井の人々の素顔を脈々と撮り続けた木村伊兵衛の作品があり、文楽、お寺、炭鉱街は土門拳が妥協を許さぬ鋭い視線で撮り尽している。海外に目を向ければ、パリをはじめ世界の人々を絶妙な構図で切り取ったアンリ・カルティエ=ブレッソンが燦然と輝き、報道写真ではロバート・キャパやセバスチャン・サルガドが記憶から離れない。前衛的な写真ではマン・レイがいるし、風景写真では美しいモノクロプリントの極地ともいうべきアンセル・アダムスである。思い巡らせばすぐに何十という歴史的な写真家の名前と歴史的名作といわれる作品が次々と浮かんでくる。さらに現代ではマーティン・パーやティルマンズが記憶に新しい。  彼らがすでに立派な作品を残しているにも関わらず、再び我々が撮影行為を繰り返す必要が果たしてあるだろうか?写真表現の手法も出尽くしたし、取り上げるテーマも撮り尽された感があるというのに、何故我々は今もって写真を撮り続けているのだろうか?
 それには2つの答えがある。1つは、どの個人をとってしても、その個人は世界に1人しかいない存在であるということだ。つまり、100人写真家がいれば100通りの写真人生があり、100通りの視点、主張が存在し、100通りの写真が生まれるのだ。スナップ作家の場合、木村伊兵衛的だ、ブレッソンっぽいね、と言われるかも知れないが、自分は別の人間なのだから,極めればおのずと違う写真群になっていく筈なのだ。ある写真家の写真が好きで、その真似から写真の道に入るケースがある。そんな場合でも、何年、何十年と写真を撮り続けていくうちに、徐々にだが真似を乗り越え自分だけの境地に到達することは可能だと思う。写真を始めた時から独自のスタイルがあれば、それは良いだろうが、大抵は試行錯誤しながら自分スタイルを形成していくものだ。そのスタイルを形成するにはやはり、自分の個性を出し切り、自分の心の叫びに耳を傾けることだ。言い換えれば、自分の心が何を欲しているのかをピュアに受け止め、正直な作品づくりに最善を尽くすことだ。この時点でピュアな心を偽り、流行に流されたら残念な結果になる。流行を追うあまり自分のスタイルを形成するどころか自分を見失ってしまうからだ。
 ブレッソンと同じパリの街に立ち、ライカを構えたとしても、自分はブレッソンと違う心を持っているのだから、また違った、自分にしか見えないパリが発見出来るのだ。「わたしには見えないわ!」、という人はまだ目と心は充分研ぎ澄まされていないのだ。心に確信が持てない場合には、素朴な疑問を被写体に投げかければ良いだろう。パリの公園で老人のカップルが何故こんなに素敵なんだろう。なんでこんなに移民が多いのだろう。なんで僕は街の人々の笑顔にこんなにも惹かれるのだろう…自分の抱いた様々な疑問を持ってすれば、自分なりの被写体は見つかるものだし、撮影の価値は充分発揮されるだろう。
 そして、もう1つの答えは時代性だ。時間という誰にも止められない移ろいによって、世界は進化、または退化しながら変化している。我々を取り巻く被写体は2008年の現在にしか捉えられないものだ。現在は昨日にも明日にも存在しない。現在の自分の解釈で現在の被写体に迫る。これは今カメラを持っている我々の特権だし、だから今しか撮れないもの、今の自分しか撮れないものを撮る、という行為は価値あることなのだ。
 2008年7月を20歳で迎えた写真家も、50歳になった写真家も、80歳に届いた写真家も、今の自分で今を撮れば過去の作品、そして他の写真家とは違う何かが撮れるものだ。  仮に、つい最近写真を始めた80歳の無名な写真愛好家が、パンクのコンサートが開かれているライブハウスに紛れこみ、80歳の視点で現代の若者シーンを捉えたとしたら、そこには新鮮な接点が生まれる可能性がある。そしてその作品に新人としての賞賛が送られたら、それは素敵なことではないか。  ピュアな心と、目の前の今の被写体との紛れもないスパークが、自分ならではの写真を生むのである。「今の自分が今の被写体に向き合い、撮りたいものを撮りたい様にとる。」これが自分の写真の価値を築き上げるすべての基本なのだ。