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第44話 『 ある一言 』

写真を長くやっているとふと自分を見失うことがある。僕のこれまでの経験は、人生は写真家として正しかったのだろうか、そして今後、どのように歩いて行けば良いのだろうか、さらに、自分の写真のスタイルとは一体どんなものだろう。仮にスタイルが一つあったとしても、それは人に評価されるだろうか、、。
 自分が撮りたい写真を撮る、ということが基本とはわかっていても、自分の撮りたいものに意味があるのだろうか、それとも徒労に終わってしまうのか。そんな疑問を持ったまま日々を過ごすのは健康ではない。
 そんな時、人から言われた一言がとても貴重に思えることがある。時としてその一言によって迷いそうな自分は軌道修正したり、正しかったと認識したり出来るのだ。正しい意見を示唆してくれる人が周囲にいるかいないかはとても重要なファクターだ。 自信や確信があって歩いて行くのと、自信や確信が無くて歩いていくのでは、毎日の充実感が天と地ほど違う。 僕の場合、写真学校には行かなかったので指導者という人材が周囲に全くいなっかった。20歳前後の若い時代は暗中模索でしかなかった。しかし、勝手気ままではあっても好きな被写体を見つけると素直にそれに向かっていた記憶は確かにあった。 そんな僕がその頃、必死に熱望していたことがある。それは写真家と話をすることだった。その機会を得る唯一の方法があった。当時銀座にあったニコンサロンに通うことだった。現在は各メーカーがギャラリーを銀座や新宿に持っているが、1970年代はニコンサロンが最も権威があり、プロ写真家が強く意識していたギャラリーだった。ギャラリーの奥に小さなドアーがあり、その中が事務室になっていた。事務室に寺尾さんというニコンに勤める責任者がいた。この方は人の面倒見が良く、暖かな人間味があったので、この方を頼りにして多くの写真ファンやプロ写真家が事務室に集まって来ていたのだ。しかし、個展をやっている作家や有名写真家ならともかく、ただの一学生である僕にとって、このドアーをノックして部屋に入るのはかなりの勇気が必要だった。
 僕は週一回のニコンサロン通いを半年重ね、ついに寺尾さんに顔を憶えられるようになった。以来、部屋の隅にちょこっと座り、立ち寄った写真家達の談義に耳を凝らし、写真の世界の空気を吸った。撮影のこと、機材のこと、海外での経験、、。写真学校を知らない僕にとっては刺激に満ちた写真家達との時間だった。
 そうした中、このギャラリーで個展を開いていた20代半ばの青年写真家に出会った。僕より年が3つ、4つ上だろうか。この年齢の近さと、彼の物腰の柔らかさに親近感を覚えた僕は、とあることを思いついた。この人なら僕のポートフォリオを見てくれるだろう。 翌日、僕はミニコピーという薄いペラペラの紙質の印画紙をホッチキスで綴じた10ページ程のポートフォリオを持参した。僕の自宅の近くにある神社のお祭りに集まった人たちを撮った内容だった。彼なりの意見を言ってくれた後、彼はこう続けた。「こうしたドキュメンタリーだったら、国分寺に住んでいる樋口健二さんという写真家を紹介するから訪ねてみたらいい、、。」
 国分寺は僕の通っていた大学があるところだった。オレンジ色の中央線に乗り、電車が新宿から西に向い郊外に進んでいくうちに空気はどんどんきれいになっていくのが感じられる。武蔵境の駅あたりから、電車のドアーが開くと確かに都会とは違う澄んだ空気の匂いが車内に流れ込んできた。 大学の写真部の友人鈴木君を誘って二人で樋口氏を訪ねたのは、春が終わって夏までにはまだ間のある5月のとある一日だった。新緑の清々しい匂いが小さな四つ角を曲がる度に僕たちを包んだ。武蔵野の面影を残す、といわれているこの地域には、やはり都心に比べると自然の様相がいたる所に息づいていた。樋口氏のご自宅はすぐに見つかった。美しい奥様が僕達にお茶を入れて下さった。写真家の家を訪問して写真をみてもらう。僕にとって初めての経験だった。ざっとポートフォリオのページをめくった樋口氏は、開口一番大きな声で言い放った。「あっ!これはプロより上手いわ、、!」 それを聞いた僕と鈴木君は思いもしなかった展開に顔を見合わせ、思わず嬉しさのあまり大声で歓声を上げてしまった。
 この一言だけで、僕には十分だった。明日からまた、ある程度の自信を持って写真を続けられる。しかしこの後、樋口氏は写真にまつわるご自身の経験や考えを我々に述べて下さった。そうした話から、写真家にとって写真とは、人生をかけて真摯に向き合うものであるということを強く感じた。この樋口氏を紹介していただいた、ニコンサロンで出会った青年写真家は、現在ネイチャーフォトの第一人者である竹内敏信氏であった。
 それから6年後、僕は写真家になる礎を築くべくロンドンにいた。29歳になっていた。23歳で日本を発って以来一度も日本に戻らずにいると、あれほど新鮮だったロンドンの風景も人々もいつしか日常化し、一体何を撮ったら良いのか、自分の中で迷うことが多々あった。ある日、日本の音楽雑誌の撮影でミュージシャンの事務所を訪れた後、僕より5歳程年齢の若いライターの黒澤嬢が地下鉄の駅までの道を歩きながら僕に言った。 「ハービーはね、人間の生きる喜びとか悲しみを撮ればいいのよ、、。」 何気に発せられたこの一言が、その後ずっと僕の心の中に残っていた。ともすれば写真のテーマを見失いがちだったその当時の僕にとって明暗を分けてくれた一言だった。
我々は時に、ふとした一言に、しかし、一生影響を与えてくれる一言に巡り合うことがある。その一言を呼び込むのは誠実な人と人とのつながりしかないと思う。