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TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 > 第52話 『34年振りの恩返し〜QUALITY OF LIFE』

第52話 『 34年振りの恩返し〜QUALITY OF LIFE 』

時は1975年のことだから、もう大昔の話である。僕がイギリスに住み始めて2年が経っていた。もともと半年のつもりで日本を発ったのだから、もう2年も海外生活を続けているということが全く予定外のことだった。半年しか観光ビザはもらえないという理由で半年の滞在を計画したわけだが、実際にブライトンという街やロンドンに住むと、日本とは全く違ったこの国の空気感を楽しんだり、自分の足で歩いている、という充実感に満たされ、日本に帰るのはずっとずっと先でいいと思うようになっていた。
もし、ビザさえ延長出来るものなら一日でも一秒でも長くこの国に滞在したいと感じていた。

予定の半年を超えて住んでいれば、当然のことながら、すぐにお金は底をつき、その度、父親に頼んで送金をしてもらった。だがいつまでも送金を頼むのは気が引けた。そこでアルバイト感覚で、ビザも延長出来、いくばくかのお給料が入るので始めたのが、ロンドンにあった日本人劇団に入っての役者生活であった。全くの素人であった僕にとって、舞台に立つということはそう簡単ではなかった。毎日毎日、稽古に明け暮れ、人と人との摩擦に翻弄され、30人のオーディション合格者が10人に減り、やっとのことで初日を迎えた。しかし、日本にいては絶対に不可能であろう、こうした舞台に立つことが、僕のロンドンの生活では可能なことであった。この自由さがたまらなく新鮮だった。そして、新しいことに挑戦出来る刺激が手に入るという事実は、「人生を賭けた長い旅の中」という特殊な環境では当たり前の出来ごとであった。振り返れば、ミックジャガーをはじめとする大物ミュージシャンや文化人が次々と観劇に訪れる超人気劇団だったのである。

しかし、役者生活で一番僕を悩ませたのは、煩わしい人間関係もあったが、写真活動が禁止されたいたことだった。
「お金をいただいて役者をしているのですから、写真家と役者の2足のわらじを履いてはいけません。」というのが座長の言葉だった。
確かに中学生の頃、アクターになりたい、というおぼろげな希望があって、その希望が、ここロンドンで現実になったという達成感はあった。また、舞台に上がって初めて知ったナルシズムをくすぐられる独特の快感と緊張感を味わうことが出来た。
しかし、写真家になるという最大のテーマから遠ざかってしまったという焦燥感も否定出来なかった。

ロンドンでの2カ月に及ぶロングランを終え、数か月のグランクを挟み、我々は、ヨーローッパツアーに出掛けた。スペインのマドリッドとバレンシア、イタリアのローマ、オーストリアのウイーン、その後、スイス、ドイツとツアーが続いた。ヨーロッパのそれぞれの国は、春の兆しを十分に感じる明るい日差しの下に輝いていた。
今でも憶えている。ドイツの美しい学生の街、マンハイムでの最終公演の日、僕は劇団を退団し、本来の写真家になる道を歩んでいこうと決意したのだ。これが僕の人生で最後の役者としての瞬間だ、と思うと25歳の僕の目には、とどめもなく涙があふれた。

ロンドンに戻った僕は、何の組織に属さない自由さを感じると同時に、遠い異国での仲間を失い、再び一人ぼっちになってしまった寂しさ、心細さを味わっていた。
さあ、ビザをどう延長しよう、お金をどうやって手に入れよう、この孤独からどう逃れよう、重大な問題が僕の目の前に山積していた。
一人になって1週間か10日経ったある日のこと、僕はレスター・スクエアにある、フォトグラファーズ・ギャラリリーに足を運んだ。ここはロンドンで一番ポピュラーな写真専門のギャラリーで、何度か訪れたことがあった。
その日、僕は2人のイギリス人の写真家と出会った。僕のニコンを見て、彼らが話し掛けてきたのか、僕の方から近づいて行ったのかは憶えていない。そのうちの一人が日本に行ったことがあるということで、片言の日本語を使った。彼らの名前はクリスとエイドリアン。2人とも僕と同世代、つまり20代の半端だった。
「今度、僕たちが使っている倉庫に遊びに来たらいい!暗室を使ってもいいよ!いつでもウェルカムだから、、。」
翌週僕はクリスとエイドリアンが倉庫の住所をメモしてくれた紙切れを頼りに、ロンドンブリッジ駅を降りた。春はとっくに来ているのに夏の光にはほど遠く、弱く白い空がこの街を覆っていた。トゥリー・ストリートは両側をレンガ造りの倉庫や事務所の囲まれた色彩の無い、殺風景な通りだった。道を少し入るとテムズ河が流れていた。準工業地帯と言ったら良いのだろうか。

目指す73〜75番はなかなか見つからなかったがやっと辿り着いた。禿げた白いペイントの塗られた古びた壁と青く大きな扉が印象的だった。ベルを押すと金髪の背の高い若い女性がにこやかに扉を開けてくれた。「あなたがハービーね!クリスからあなたのことは聞いているわ!さあ、入って!!私はジュディー」

「クリスとエイドリアンはもうすぐ来ると思うけど、私が倉庫を案内するわ。まず暗室ね!地下に来て!」そう言うと、ジュディーは僕を地下室に連れて行った。そこは引き伸ばし機6台が整然と並び、大きな手作りの流しがある巨大な暗室だった。
この国に来て、暗室に恵まれなかった僕はため息をついた。 「こんなところがあるんだ、、。」

「ここではね、10人の若手写真家が集まって、3年後に大きな写真展を開催するための準備をしているグループの本部なの。保険会社がスポンサーになってくれていて、ここの家賃、フィルム、印画紙、運営経費は全てまかなわれているの!」

この後ジュディーは2階、3階、4階と僕を案内してくれた。そこにはこのプロジェクトに参加している写真家のプライベートルームがあり、天窓のある最上階はミーティングルームになっていた。埃ひとつない大きく長いテーブルは、天窓からの豊な光を受けてピカピカと光っていた。そのテーブルにはカルティエ=ブレッソンとブルース・デイビットソンの写真集が置かれていて、その両者とも僕の大好きな写真家だったので凄く嬉しく、同時にこのグループに親近感を抱く大きなきっかけとなった。部屋の周囲の白い壁には、このグループの写真家が撮ったのであろうモノクロの8X10のプリントが何枚もピン止めされていた。いずれの写真も、人間の営みを真正面からとらえた優れたプナップで、ここの属している写真家の実力の高さを如実に物語っていた。
各フロアーは100畳近くあるだろうか。以前倉庫として使われていた大きな4階建ての建物を改造して、写真家グループの本部として使っているのだった。
「こんな写真家にとって恵まれているところがあるんだ、、。」僕は半ば信じられない気持であたりを眺め回した。

ジュディーは最上階で、このグループをまとめている、いわば責任者を紹介してくれた。
「彼はヨーガン、このグループのディレクターよ!」
写真家は皆20代であるが、このヨーガンは40歳後半のドイツ人だった。

何人かのフォトグラファーを紹介してくれるうち、クリスとエイドリアンがやってきた。驚いたことに、このグループに属する写真家の全員が例外なくライカのカメラを使っていた。その時僕はニコンを日本から持ってきていて、この倉庫にも持参していたが、ライカにふと興味を持った瞬間であった。  

クリスが言った。「ネガを持ってきたかい?100枚入りのキャビネの印画紙、一箱あげるから存分にプリントしたらいい、、。」

僕は興奮を隠しきれず、日本以来、2年振りの暗室に入った。
イギリスに渡って最初に住んだ街、ブライトン、そして、ロンドンに引っ越してから住んだ黒人街ブリクストンや、一度旅したフィンランドで撮ったネガを持参していた。押入れを使って、フィルム現像だけはしてあったのだ。

ベタ焼きは作らず、ネガを透かしてみて、良さそうなカットを次々とプリントした。100枚使い終わったのは夜遅くだった。これまで撮影してきたものを確認する、絶好の機会に恵まれたのだ。

「僕のプリントを見ていただけますか?また、来週ここに伺います。」僕は、プリントをヨーガンに預けて家路についた。

翌週、再び、僕は倉庫を訪れた。
真っ先にディレクターのヨーガンが僕のところにやって来た。
「ハービー、君の写真を存分に見せてもらったよ!とても素晴らしい人物の写真だった。実はね、このグループで我々がやろうとしているのは、「QUALITY OF LIFE」と呼んでいるんだが、人間の生きる価値とは何かを追及していきたいんだ。君の写真は実に自然に人間の表情をとらえている。どうかね、我々のグループに入って一緒に活動してくれないか。君のことを先週のミーティングで討論した。全員が君の参加に賛成の手を挙げたんだ。我々は君の写真が必要なんだ!なんなら今日からここに住んだっていい。ビザも延長出来るよう我々がトライしてみるさ、、。」

僕は我が耳を疑った。こんな展開が待っていようとは。 僕は二つ返事でヨーガンに、「宜しくお願いします。良い写真を撮るために最善を尽くします。」と言って頭を下げた。ヨーガンは「ありがとう。」と言った。ジュディーは笑ってこの様子を見ていた。クリスとエイドリアンは僕にウインクを送ってくれた。今日初めて紹介されたとびきり美人のジェシーは、少し離れたところで、この様子を見守りながら長い髪をとかしていた。

彼らとの3年間の活動は夢の様な時間だった。写真展の会期を照準に入れながら我々写真家はヨーガンのティレクションの下、一枚一枚写真を撮り続け、掲げたテーマに近づいていった。僕にとっては、家賃の無い住居、フリーでいくらでも使えるフィルムと印画紙、そして何よりも仲間に恵まれたことで、劇団を辞めた当時抱いていた心配は杞憂に終わったのである。日本に比べ、ヨーロッパの写真用品は凄く高価だ。そして彼らに助けがあってなんとかビザの延長に成功した。倉庫の中で与えられた僕の自室で、夜ふと目覚めると、自分の置かれた恵まれた状況が脳裏に駆け巡り、笑が込み上げてきた。僕は心の中で大声を上げて笑い続けた。

さらに、何よりも嬉しかったのは、3年の活動の後、テムズ河畔にある国立劇場のオープニングを飾る行事として「QUALITY OF LIFE」の作品は、6カ月に渡り劇場の空間全てを使って展示されたことである。写真展は大成功だった。

1978年、グループは使命を終え、解散した。

以後全く別のロンドンでの生活が始まった。そして、グループの仲間たちと会う機会がほとんどなくなってしまった。それぞれ自分の写真活動のため散っていったのである。

2008年、僕は銀座に行くと大抵立ち寄る,ライカギャラリーのドアを開いた。2階では常に写真展が開催されている。
僕が訪ねたその月には、ヨーガンなんとかという写真家のモノクロのドキュメンタリー写真が展示されていた。ヨーガンはドイツにはよくある名前である。しかし、写真を良く見ると、ロンドンでお世話になったヨーガンの作風と共通しているものを感じた。写真を見れば見る程、僕の胸にざわめきともトキメキともつかぬ不思議な感覚が起ったのである。
僕はライカ・ジャパン社の米山さんに電話をした。
「今、ギャラリーで開いているヨーガンっていう写真家ですけど、彼は1975年前後イギリスにいましたか?そして、僕の知る限りではもっと以前、南アフリカに渡って、長いこと活動していたことがあるんですが、、?」
「ハービーさんのおっしゃる通りです。彼はロンドンにいたことがありますし、南アフリカでは長年の功績が認められて、写真の父、として親しまれています。」

結論を急げば、真さにこのヨーガンは、僕がお世話になったあの彼だったのである。イギリスで初めて、僕の写真の可能性を認めてくれたいわば命の恩人である。もし、僕が、ロンドンのグループに参加していなかったら、経済的にもビザも孤独も限界に達していて、八方塞がりだった僕は、意思半ばにして帰国を余議なくされていたのに違いなかった。
今回、彼は来日しておらず、その代わりドイツ人のキューレーターである、ドクター、セイぺルと会うことが出来た。現在ヨーガンは78歳、フランスの郊外に妻のクラウディアと住んでいて、「QUALITY OF LIFE」のことを、良き思い出としてちょくちょく話すそうだ。
ドクター・セイぺルに、「ヨーガンに渡して欲しい」と僕の写真集を託した。

間もなくヨーガンからメールが来た。「素晴らしい写真集だった。まだ君が写真を続けていることをとても嬉しく思う。残念だがあのグループの何人かはすでに写真界から消えてしまったようだ。ライカでの展示が終わっても、日本のどこかでまた写真展が開けると良いんだが、、。」

僕は今、彼に恩返しが出来るチャンスだと思った。なんと30固振りの恩返しである。
早速、アサヒカメラに彼の写真を紹介するページをお願いし、12月売りの新年号に5ページを頂いた。そして、目黒のブリッツギャラリーで、僕とヨーガンの二人展をお願いした。12月2日より来年の2月6日にかけての開催が決まった。

ヨーガンは1960年代の貧困に喘ぎながらも希望を見出そうとするグラスゴーで撮ったドキュメンタリーを、そして僕は、イギリスに渡り、最初に住んだブライトンの写真から未発表作品をプリントした。初めての僕にとってのこの外国の街は、何もかもがおとぎ話の中の街のように美しく、透明な空気に満ちていた。まるで天使が舞い降りたかのような街だったのである。36年前の写真だが、作風は今と全く変わっていない。 

30余年の時を過ぎ、2人展をせめてもの恩返しとして開催するのは実に感慨深い。
これこそが僕たちの   「QUALITY OF LIFE」(価値ある人生) なのである。