out
 

TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 > 第73話 『71ー73 TOOLEY STREET』

第73話 『71ー73 TOOLEY STREET』

1975年から1978年までのおよそ3年間、僕はロンドンブリッジから歩いて数分のところにある、大きな倉庫に数人の写真家仲間と住んでいた。 71−73 TOOLEY STREETというのが正式な番地だった。

この頃、テムズ河沿いには沢山の倉庫が立ち並んでいた。50年代とか60年代初めまでは、こうした倉庫群は、テムズ河から荷揚げされた様々な荷物を 保管するために大切な機能を果たしていたのだろう。しかし、輸送手段が、水上から鉄道やトラックに移行するにつれ、この地域の倉庫はその用途を失ったのである。
そこに目をつけたのが、アーティスト達だった。空き倉庫を安い家賃で、しかも200平米、300平米という広い床面積を、騒音も、近所の目も気にせずに自由に使えるのである。僕の住んでいた倉庫もそうした倉庫の一つだった。

倉庫に移り住む前、僕はレッド.ブッダという在英日本人劇団に所属する役者として生活していた。当時、アメリカやヨーロッパで、前衛パーカッショニストとして知られていたSTOMU YAMASHITAさんが主宰する劇団だった。20人程の団員のほぼ三分の二が、日本人で占められていた。
もともと写真家になる夢を持ってロンドンに住みついたのだが、観光ビザが半年で切れ、ビザを延ばすのが目的で、オーディションに受かった僕は、思いも寄らぬ役者としての生活を始めたのだ。フラット(部屋)は、ロンドンの南部。地下鉄、VICTORIA LINEの終点、BRIXTONというところだった。黒人が多く住み、白人達は敬遠する地域だった。狭く、日当りの無い寒い部屋だった。

役者をしている時は、座長から、「人様からお金を頂戴して芝居をしているのだから、劇団に所属している間は写真のことは忘れなさい」、と言われていたので、カメラは、月曜日の公演のない日以外は封印していた。
ロンドンで2ヶ月の公演、そしてヨーロッパツアーに出て、スペイン、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツを回った。
ロンドンでは、ミックジャガーもお客さんとして観劇してくれたり、二ヶ月間の週8回公演は、千人弱の席が毎回ほぼ満席だったり、ローマでの一夜限りの野外ステージでは、一万五千人のお客さんを集めたり、とても人気のある劇団だった。

しかし、写真家になる夢を捨てたわけではなかった。 そこで僕の出演が100回を数えたところで僕は退団を決意した。 それはドイツのマンハイムという街での公演中ことだった。
すぐ近くには、ハイデルベルグという学生が多く住む、夢多き、爽やかで美しい街があった。
僕の役者としての青春の一ページに区切りをつけるのにふさわしい土地柄であるように思えた。
公演最終日の本番中のさなか、もう、僕のこれからの一生の中で、 これほど多くの人の前で演技をすることはないだろう、と実感するや、 25歳でのこの人生との決別に限りなく涙が溢れたが、汗の中に隠し最後の舞台に上がった。

ドイツからロンドンに戻った僕を待っていたのは、さあビザをどうやって延長出来るのか、失った芝居仲間の代わりに、どうやって新しい友人を作ろうか、再び悩むであろう一人ぽっちの寂しさにどう打ち勝ち、収入はどうやって確保すればよいのか。そうした異国で一人で生きるための最低条件をクリヤーする課題だった。

一ヶ月が経ったある日、以前何度か足を運んだことのある、PHOTOGRAPHER'S GALLERYという有名な写真ギャラリーに、ニコンをぶら下げて行ってみた。 その日そこで知り合ったのが、年も僕と同じくらい、二十代半ばのクリス、とエイドリアンという写真家だった。
その彼らが、僕たちの所へいつでも遊びにおいでよ、と住所をくれたのが、71−73 TOOLEY STREETだった。暗室があるから、ネガを持って来たらプリントしてみたらいい、と言ってくれた。今思えばそれが全ての始まりだった。

翌週、その倉庫を訪れた僕は、驚きを隠せなかった。地下室全体が、引き伸ばし機が4〜5台置けて、ロールペーパーまで現像出来る流しの備わった暗室で、1階から4階までが、リビングルーム、ミーティングルーム、個人のプライベートルームになっているのだ。数名のイギリス人の同年代の男女の写真家、そして、ディレクターだという、40代のドイツ人のヨーガンを紹介された。聞けば、この倉庫は、3年後に大きな写真展を開くために集められた10名の精鋭写真家達の活動拠点ということだった。
スポンサーである保険会社が付いていて、家賃やフィルム、印画紙は無限に供給されているという。
暗室も持たない、フィルム一本買うお金に不自由していた僕にとっては、羨望の先にいる彼らだった。 その日、暗室を借りて、それまで、ダークバックを使って現像だけしてあった100本程のネガから、100枚のキャビネに徹夜でプリントした。

結果、そのプリントを見た、ディレクターのヨーガンが、人間を撮っている僕の写真のテーマと、彼らの写真展の「QUALITY OF LIFE」というコンセプトが 一致していることなどから、とても気に入ってくれ、10名の写真家に、正式に僕をメンバーにすることをミーティングで諮ってくれ、なんと翌週僕は、彼らの仲間になれたのである。
BRIXTONからTOOLEY SYREETへ引っ越してきた。劇団を辞め、路頭に迷ったのも束の間、写真家達との出会いと親切と判断のお陰で僕に写真へ進む道が与えられたのである。

この倉庫に住んだ3年間は、僕にとって、自由に写真が撮れる夢の様な時間だった。仲間がいて、近い将来大きなグループ写真展が約束されていて、人生とは こんなに希望に溢れているのだろうかと、自らの幸運を実感する毎日だった。
写真展の準備期間や、写真展が終わってからも、多くの写真関係者がこの倉庫を訪れて来た。
PHOTOGRAPHER'S GALLERYの名ディレクター SUE DAVIS、喜劇王CHAPLINの世界的研究者でThe Times紙の映画評論の主筆 DAVID ROBINSON, そしてそうした人の中に、マグナムの写真家、JOSEF KOUDELKAがいた。

JOSEFは、1968年、ソ連がプラハに侵攻し、国が共産圏に組み込まれたその日の一部始終を記録した。その後彼は、そのネガを持って国を離れ、フランスに流れ着いた。
僕はかつて、PHOTOGRAPHER'S GALLERYのブックショップで、彼が撮ったジプシーの写真集を見たことがあった。モノクロームのドキュメントは、ヨーロッパを流浪するジプシーの生の姿を克明に、そしてJOSEFの共感を持って表現されていた。
JOSEFは僕たちの住む倉庫に来る度に、いつも同じカーキ色のミリタリージャケットを来ていた。丸いメガネの奥に、ときに厳しい、時に優しい光が灯っていた。そして彼の胸には、ある時はライカM4、ある時はライカM3がいずれも2台のブラックペイントが下げられていた。 貴重なブラックペイントが2台こすれ合って傷がつくなど、全くおかまいなしである。
一枚でも多くの名作を残す事が彼の使命だから、仮にJOSEFやBRESSONがブラックペイントの傷を気にしている様な仕草を目撃したら、全てが興ざめである。

当時JOSEFはすでにマグナムの会員で、フランスに住んでいたから、ロンドンに来る時はいつも知り合いのところを泊まり歩いていた。であるから、ロンドンでは、この倉庫に来るときは、僕の部屋が比較的広かったので、彼の宿となった。
そうした機会に彼の写真の感想や、僕の写真に対して彼の感想を語り合うのがとても楽しみだった。そしてなによりも、写真家になりたいという夢を持った僕にとって、マグナムの写真家である彼とプライベートな時間を過ごせるのが、大きな誇りにも似た快感であった。ロンドンにいるから可能なことである。 例えを替えれば、将来野球選手になりたいという若者の部屋に、現役大リーガーが泊まりにくる様なものだろうか。

そんな彼に尋ねたことがある。「いつも一人でいて寂しくないのか、写真家になった事を後悔していないか、、」
寂しさについては、さしてなにも言わなかったが、写真家になったことについては、「一度決めたら後悔なんてしないさ!」と力強く言ったのを良く憶えている。その言葉が僕に勇気をくれた。寂しくても、写真を続けようと。

ある夜、彼が僕の写真を見ながら言った。
「このクエートで撮った、豪華な寝室の写真ね、今皆この写真がいいって言ってるけど、僕は、今日始めて見たスペインの田舎の老人のポートレイトとかが、もっと好きだね!」
豪華な寝室の写真とは、1973年、オイルショックが起きた直後、産油国の実態を撮影したくて、ロンドンからクエートに旅して撮ったものだ。 そして、スペインの写真は、1975年の春、劇団に在籍中、地中海に面した田舎の村に一ヶ月滞在した時に撮ったものだった。ある日、その村では日本でいうお祭りに当たるのだろうか、村に一頭の牛を放ち、村の若者が牛に近づいて勇気を競い合うという行事が行われた。その行事を遠くから眺める老人達の姿を撮った物だ。JOSEFが、「I like them very much!」 そして、ライカが欲しいと言う僕に「これだけの写真が撮れるにだから、今の機材で充分だろう」と言ってくれた時の興奮は今でも忘れない。

あれから30年以上が経った。 2011年、5月。東京都写真美術館で、彼の「INVASION」と題された大規模な個展が開催された。1968年のソ連の侵略を撮ったドキュメントだ。 作家を迎えてのオープニングの日、僕は高鳴る胸を押さえながら開場に向かった。僕の家から、自転車で10分もかからない。
30余年振りの再会である。風貌は変わっていない。舞台での挨拶で彼は、」この写真はドキュメントというより、自分の感情の表現だと思っている」というような事を言った。自分の愛する祖国が、近隣の国からの侵略で、たちまちにして崩壊してしまう様を目の前にして、かれの胸中には、とてつもない怒りや悲しみや失望が襲ったのだろう。祖国以外の国を撮影するのとは違った、押さえきれない感情があった、ということなのだ。彼の挨拶が終わり、壇上から降りて来た彼に声をかけた瞬間は、すぐには思い出せないようだったが、内覧会の半ばにして記憶が戻ったらしく、にこにこして僕を呼び止め、僕の肩を抱き込みながら、チェコ大使館の人達に母国語で懐かしそうに、ロンドン時代の話をしながら,僕を紹介してくれた。

数日後、彼から電話があった。「駿河台の山の上ホテルに泊まっているから、飲みにおいでよ!」 その夜、地下のバーでワインを飲んだ。 僕のロンドンや、HOPEの写真集、そして、1989年、僕が撮った、民主化が宣言されたその日に撮ったプラハの写真を見せた。
「GOOD JOB! そしてGENTLEな写真だな、あのロンドンの頃から君はずっとそうだった。このREALITYと特にこのGENTLEさは君の大きなADVATAGEだ。」 そして僕の様々な問いに答えてくれた。
「現代美術風の写真ね、そうした写真を否定はしないよ。彼らの自由だから。でも俺は撮らないね。」
「考え過ぎるのも良くないのさ。そして、自分自身を写真の中にさらけ出さない作家もいるんだよ。自分は誰かということを見せないんだ。そういう写真は2度は見ないね。」
「失って始めて人間は何が大切なのかを学ぶものなんだ。」
「認知されること? それは、写真のトレンドというのはどんどん変わっているんだから、君のスタイルをこの先も続けることだろうね。」 「今日見せてもらった君の写真は、正に僕の知っている君そのものだよ。Your gentle pictures show exactly what you are! それが一番大切なんだ!それを君は守っているのだからさ。」

別れ際、日本からのお土産だ、と小さな竹細工を渡そうとした。そしたら、それを受け取ろうとはしなかった。 「俺の人生はとってもシンプルなんだ。俺の部屋には何も要らないんだよ。もし、これを君の部屋に置いておいて、これを見るたびに、俺のことを思い出してくれたら、その方がずっと嬉しいんだ。」
「ちょっと、僕の部屋に寄らないか、来年の写真展も構想と、写真集の色稿を見せるから、、。」
彼の部屋に入ると、ベッドの上に置いてあったズミクロン6枚玉の付いたライカM6TTLをさっと手に取り、カメラを顔に近づけたかと思うや、僕にレンズを向けると同時に、チャッというシャッター音が一度鳴り、直後カメラをベットの上に放り投げた。その間0.3秒。ロンドン時代から、彼の撮り方はいつもそうだった。手探りで2mと3mにピントを合わせられる様に、境胴に楊枝の様な、マッチ棒の様な小片が接着されている。これであらかじめ、例えば2mに合わせておいて、被写体がその中に入ったら、その一瞬にシャッターを切る。今、本当に僕を撮ったの?と疑る早さだ。

山の上ホテルは、駿河台のメインストリートを裏手に回ったところにある。昔から文豪に愛された、レトロな雰囲気が素敵なホテルだ。 5月の深夜、この裏路地には夏の予感を感じさせるほの暖かい穏やかな空気が静かに渡っていた。