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第74話 『心の内なる声』

2011年10月のこと、友人の写真家に誘われてグループ写真展に参加した。僕以外はコマーシャル系で活躍している写真家達およそ10名。若い方だと30代半ば、そしてベテランではもう少しで50歳という年齢、僕は61歳になるので最年長の参加者だ。 30年前、ロンドンから帰国した時、僕は30代の始めだったから若手の筆頭だった。雑誌STUDIO VOICEには、今年最も期待される若手写真家などという見出しで僕のことが紹介されていたりもした。
それがこの写真展では最年長ということになった。こうした事態に直面すると、いやがおうにも考えさせられるのが、自分が写真家として、人間として過ごしてきた長い時間が納得出来るものだったか否かということだ。幸い僕は、全ての作品の展示を終えたギャラリーを一周し、自分には自分なりのスタイルがあると、納得出来たのである。
納得出来ればそれはそれで良しとし、もし納得出来なかったら、これからの残された時間で、足りないものを補いつつ精一杯のことをやろうじゃないか。思いを新たにすれば良いのだ。「人生は、何事も遅すぎることはない」と言われる。何かをしなくてはと気付いた段階で一歩踏み出すことが出来ればしめたものだと思う。
2011年8月にトークショーをご一緒させて頂いた、日本初の女性報道写真家の笹本恒子さんは、その年97歳になられた。たいそうお元気である。 「60代の方は、私の歳になるまで、あと30年もあるのですから、何事だって今から始めれば何とか形になりますよ!」と仰られた。 

さて、このグループ写真展は2週間の会期で開かれた。僕と違う世代、違う分野で活躍する写真家達との交わりは実に刺激的だった。 その一つは、オープニング・パーティーや会期中に会場に訪れた方々の顔ぶれが、僕の個展にいらして頂ける方々とは全く違うことだった。 特にオープニング・パーティーにはモデルや女優、ファッション雑誌の編集者たちが多く見られたし、また会期中には、僕が撮る様なスナップ写真に興味のない人も数多くいらしただろうから、そうした方々に僕の写真を始めて見せる絶好の機会になったのだった。
さらに僕にとって興味深かったのは、期間中数回に渡って開かれたトークショーだった。残念なことにお客さんの数は毎回15人程度ではあったが、僕はほぼ毎回、話し手として飛び入り参加し、他の写真家達と本音のトークを2時間近く繰り広げた事だった。
最後の2回のトークが最も面白かった。両日ともブリッツ・ギャラリーの福川さんを迎え、現代アート作家としての写真家と、ファインアート写真家との違いについてのトークを行った。 ファインアートはモノクロームという抽象的な美を追求するものだった。 一方、中世まで貴族の道楽として画家に描かせていた絵画には、19世紀後半、セザンヌなどの印象派から変化が起こり、世の中の仕組みを自分なりの理論で知りたい、という考えから、現代アートがスタートした。写真界ではダダイズム(破壊)やシュールを経て、1990年代、デジタル化が進むにつれ、写真の現代アート化が一般的になったという。 ニューヨーク、そしてヨーロッパにそれぞれ約4万人の自称アーティストがいるそうだ。 その中で、どんな方法であれ生活出来ている人がおよそ5千人。純粋に作品を売ることだけで生活出来る人が300人ほど。ビックスターとして時代のトップにいる人が75人なのだそうだ。 2011年春のニューヨークでオークション終了時、写真家で、1番高値をつけたのが、シンディー・シャーマン、2番目にリチャード・プリンス、3番目がアンドレアス・グルスキー、 そしてやっと4番目にファインアートのエドワード・スタイケンが登場する。

こうした、アートのマーケットでは、いかに新しいアイデアと深いコンセプトを持っているかということが勝負の鍵となるそうだ。現代アート作家を育てる学校では、自分独自のコンセプトをいかに構築するかの勉強が最も大切らしい。 優秀な学校の卒業展には、世界のディーラーが集まって来て、30歳までに芽が出ないとアートの世界から去って行く。

であるから、我々写真家も自分のアイデアとコンセプトをもっと磨く必要があるのではないか、と話が進んだ。 もしも、これから写真で、世界に打って出ようとするなら、アイデア、コンセプトがなければ勝負にならないのだろう。 写真やアート作品に何百万、何千万、何億という値を付けるコレクターは、作品の持つコンセプトやメッセージを読み取ろうとする。そこで、曖昧で浅いコンセプトしかないとすぐに飽きられてしまうのだ。
こうした話を聞くと、「ただ楽しいから写真を撮っているだけ」、という理由で写真と関わっている人達には、何か別の世界の話の様で、実感が湧かないに違いない。 僕自身も、「幼年期から少年期に患った病気によって強いられた孤独と絶望の時期、社会の冷たい目と不安にさらされていた僕が一番欲しかったのは、どんなに甘いお菓子よりも、どんなに精巧に作られたおもちゃよりも、僕に向けられる人々の笑顔や、僕に生きる勇気を与えてくれる何かだった。だから中学2年生で写真部に入部した時に、おぼろげに感じていたのが、いつかはこころを穏やかで元気にしてくれる写真とか、人が人を好きになる様な写真を撮れるようになりたいだった。そうすれば世の中は少しでも優しく平和になるになるのではないか、、。その想いは今でもずっと変わらない、、。」など自分のテーマやスタイルを続けてはいるが、果たしてそれが世界のアート界に通用するものなのか、皆目見当がつかない。

だがトークの最後に福川さんが、ジョエル・マイヤロウィッツというアメリカの写真家の言葉を出し、我々は救われる事となった。 ジョエル曰く、「世界の現代アート作家の中には,新しいコンセプト作りに翻弄され、ディベートで論破しようとコンセプトの競争をしているだけの奴らが沢山いる。一番大切なのは、コンセプトより、胸にキュンとくる、本当に心で感動することなのに。」  この言葉が、その日のトークの結論だった。

第91話の中、ジョセフ・クーデルカの言葉を挙げてある。「考え過ぎるのも良くないんだ。彼らは自分は誰なのかを語  らないんだ。」という様な発言だが、ジョセフもジョエルと同じことを言いたかったのではないだろうかと今になって思うのである。

この結論をtwitterに書くと、同感です、安心しました、という返信が多く来た。

現代アート、ファインアート、アマチュアリズム、そのどれも否定は出来ない。時代との接点、伝統と革新といった言葉を頭の隅に置きつつ、結局は、自らの内なる心の声を聞きながら、自分なりのスタイルを続けることが、自分の人生への納得につながるのではないだろうか。