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【ラジオ出演のお知らせ】
2011年12月27日と28日の二日連続で、T-FMの坂本美雨のディアフレンズに、
今年最後のおおとりゲストとして出演させて頂きます。
午前11:00〜11:30放送です。

キムタクなどの大物ゲストがひしめく番組ですが、おおとりに呼んで頂いて,大変光栄に思っております。
美雨さんのお父さんの坂本龍一さんは、YMO時代沢山撮影をさせて頂いておりました。
若い坂本教授の生写真をスタジオに持って行って、美雨さんに見せてみようと思っています。

【個展開催のお知らせ】
2012年3月18日まで、銀座のライカギャラリーで個展「HIKARI」を開催中です。



XTC LONDON 1980
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第75話 『1979年、29歳の年記』

先日1979年と書かれたネガを保管してある箱を久しぶりに開けたら、10ページ程の会報誌の原稿がネガシートの間に挟まっていた。この会報誌は、当時ロンドンに住んでいた日本人アーティストや、音楽関係の仕事をしているジャーナリストが集まって、親睦やお互いの刺激を図る目的で作られたJAS UKと名付けられた会のメンバーに配るものだった。コ ピー紙をホッチキスで止めただけの10ページ程の簡単な冊子で、文字はすべて手書きで書かれている。

カメラマンは写真作品を載せ、ライターは詩を寄稿している。また、ミュージシャンであってもカンボジアの悲劇を訴えるレポートを寄せたり、芸術論を展開している場合もあった。

この会は始めの何回かは、ただ集まって雑談をしていただけだったが、訪英中の音楽評論家福田一郎氏を招いて、最新の日本の事情を語っていただいたりして、内容も濃くなっていった。すると誰かが会報誌を作ろうと提案し、僕が世話役をかって出た記憶がある。
この見つかった原稿を見ると、表紙裏に JAS .UK 公認刊行物 第一巻 〜1979年をしめくくって〜 発行 JAS.UK. 限定25部 1979年12月25日発行、定価1ポンド50、そして奥付には編集後記が書かれてあり、 「取りあえず 第一巻を1979年中に発行しました。今後も楽しくやろうじゃないですか。原稿を広く募集しています。編集、発行人 中村晃、山口芳則」 と僕の字で書いてある。山口芳則は僕の本名だ。
内容は、真面目なものから、冗談混じりのものまであって、会員の一人、KAZ UTUNOMIYAの写真が載っていて、吹き出しに「ついにJASの原稿を書かなかったし、きっと俺はさかなにされますよ。なんとかなりませんかヒロ!」と多分僕が書いた会員をからかう要素もあった。
この原稿をめくっていると僕の書いたエッセイが見つかった。 この頃僕はエッセイを書くことを始めたのだろうか? 以下はその原文だ。

「日記ならぬ年記」    ハービー・山口
今年は僕にとって精神的にも肉体的にも最悪の年でした。
まず一月に居候していた家の子供からおたふく風邪を移され、一ヶ月間程外に出られませんでした。
医者に無精子症にな可能性があるとおどかされたのが今年のスタートでした。
同時に78年の夏、気楽に居候に行ったつもりのFというイギリス人の女性の家で、彼女と彼女の6歳の息子と僕の間に生じる摩擦による精神的な疲労がどっかりと肩に乗っていました。彼女は僕のことを愛していると何度も言ってくれたのですが、僕にはとても彼女を愛することは出来ませんでした。僕には人を愛する能力が無いのではないかと思って、彼女のことを理解すべく何度も試みたのですが、彼女の話を聞けば聞く程、言葉の内容と実際の行動との間に矛盾しか見えないし、かっこいいポーズをつくろうためにはかなりの嘘を平気でつくし、結局僕は彼女をどこまで信頼して良いものかわからなくなってしまったのです。

「愛とはそんな小さな欠点や性格などを柔らかく包み込む大きなものだよ、」と人は言うでしょうが,僕には無縁のものでした。 僕も含め、この家の生活は不規則で、食事は一日一食、外で雨が降れば傘もなく濡れては乾き、また濡れるというありさま。そのうち彼女が病気で10日間程入院してしまいました。入院の前後一ヶ月間、僕に主婦の仕事が回ってきました。6歳の子供を毎朝8時に起こして食事を作り、学校へ連れて行き、午後3時には学校へ迎えに行く。その間に犬の散歩を何回かやってさらにネコの世話。それと食料の買い出し。家の中を掃除しても子供と犬とネコがいるため、またたく間に全てきたなくなってしまう。など等に悩まされつつ夜は食事を作ってやり、そうした合間をぬって僕は一時間以上かかって都心へ行き写真の仕事をしていたのですから、今の僕には耐えられないでしょう。さらに、彼女は、現地の若者の言葉で「Living on SS」という、つまり仕事は一切せず、全ての収入をソーシャル・セキュリティー、つまり生きるのにやっとのお金を何十年も政府から毎週もらっていました。彼女の言い分は、自分はアーティストだから、一般の人と同じ仕事はしないという、正に英国の経済を疲弊させた元凶を作っている種類の人間でした。彼女は、政府からのお金を、たちまちタバコやお酒、そしてハッシシを買うために使ってしまい、多分、他の生活費は僕の金銭をあてにしていたのかも知れません。
この生活に区切りをつけて、現在住んでいるゴールダース・グリーンにユカちゃんの世話で移ったのですが、今までの張りつめていた心が急にたるんでしまい、愛していなかったとはいえ、一年近く生活した場所と人間から去るのは人情として寂しい限りでした。その直後、今度はジャーマンミーズル、つまり「はしか」みたいなものを患ってしまい、救急車を呼ぶか呼ぶまいかという状態になってしまいました。結局救急車は呼びませんでしたが、それが快方に向かうと過去の疲れがどっと押し寄せ、頭がボケーッとして、何か現実感がなくなってしまい、時々急に恐怖感、不安感が襲ってくるのです。そして、ひどく被害妄想に自分を追いやり、一人でいるのが不安になってくるという、パニックというか神経症といいますか、とにかく参ったのです。せめてもの気晴らしは毎日曜日のJASの仲間も何人も入っている、広い公園での野球でした。この僕が唯一スポーツの中でプレーするのが大好きな野球に救われました。本当に楽しかったんです。日曜日が来るのをこれ程待ちわびたことはありませんでした。

8月になりますと、過去に空手の真似事をしていた時、運悪く局所に蹴りが入り、睾丸に水が溜まってしまって手術した方が良いと言われ、一週間入院するはめになりました。その際、ドクターに精神面の症状を話し、血液、尿、X線、心電図等を調べてもらいましたが、特に悪いデータは出ず、ストレスが溜まっているためだ、ということになりました。イギリスが凄いと思ったところは、イギリスのメディカルカードというのを持っていたお陰なのか、睾丸の水を抜いてもらう手術をし、他の検査をしてもらって一週間入院しても、費用は一切かかりませんでした。日本だと病院を出る前必ず会計に立ち寄って順番を長い事待ちますが、ドクターが、「帰っていいよ、来週一度傷口だけチエックするから来て下さい」、という言葉を聞いて、そのまま病院を立ち去れたのです。良く晴れた夏の一日でした。街に舞い戻った僕は、プリズンから放たれた囚人のような開放感を味わいながら、この国の医療システムに感謝しました。後悔したことは、カメラを持って入院すれば良かったと思いました。様々な興味深い場面がありました。入院病棟の窓の外にいつも、風にゆっくりとなびく、イギリスの国旗、ユニオン・ジャックがとても格好よく誇らしげに見えていました。イギリスの底力の様なものを感じました。

でも、1979年、明るい素材もないことはなく、ノエさんとの一緒の仕事で、撮影したXTCのアンディーと仲良くなり、その写真をニューアルバムのインナー・スリーブに使ってくれたり、また、音楽紙レコード・ミラーに見開きの大きさで、僕がスタジオで撮影した、ヴァージン・レコードからデビューして間もない「スキッズ」の写真が載りました。さらにクラブで撮ったニューロマンティックスの若者たちの写真とインタビューがイギリスのカメラ雑誌に数ページにわたり掲載されましたし、別の写真雑誌には、巨匠ブレッソンの写真と背中合わせに僕の写真が載りました。
そんな中で、どうにか人生の価値を取り戻し、頭の中を巡る様々なわだかまりを少しでも整理する意味で、JASの刊行物に寄稿出来たことは大いに役立ちました。
皆様、僕はどうしたらよいのでしょうか。

以上が僕の当時に書いた文章だ。

この時点で僕は29歳、彼女いない歴29年。写真への情熱は人一倍持っていた。日本を出て、一度も帰国せず6年が経っていた。滞在ビザがまた延長出来るか、将来写真家として生きて行けるのか、本当に信頼出来る人に巡り会わない不運からの孤独感。そうしたストレスを抱えた状態が6年続き、かなりの人生の混乱が限界に近づいていた時期であったことを窺うことが出来る。それに追い打ちをかける様に、新しく日本から音楽写真を撮りにきた若い女の子が、僕は何年もかかってやっと出来た仕事をいとも簡単に日本の出版社の紹介状だけで撮影を始めたのを見て、その要領の良さに嫉妬したのが神経症を起こした引き金だった。

ある日、映画評論家のトニー・レインズという友人と、ポートベローにある名物映画館、エレクトリック・シネマで、新作の試写を見ている時、 今までに感じたことの無い、得体の知れぬ恐怖感が稲妻のように脳内に走った。自分ではどうにもコントロール出来ない強い恐怖感だった。しかし、トランキュライザー(精神安定剤)を使わすにどうにかやりすごせたのは、KAZや加藤ひろし、役者おエイジ、日本レストランの板前などで作っていた野球仲間がいて、毎週、日曜日、良く晴れた広い公園で汗を流し、たまにヒットを打ち、声援を浴び、ストレスを発散できたことで救われたのが何よりの幸運だった。
JAS UK のJASは、Japanese Artists Societyという意味で誰かが付けた名称だ。
そして 前出のKAZ UTSUNOMIYAは イギリスの高校出身で、その時の同級生がピーター・バラカンと桃井かおりさんだった。KAZはかつては日本の音楽誌の仕事をしていた時代もあったが、日本人としてはめずらしく、というか唯一、ロンドンのヴァージン・レコードの社員になり、その後アメリカに渡り、アメリカのレコード会社でかなりの地位を築き、現在、洋楽や海外で活動する音楽関係者なら知らぬ者がいない人間だ。
そして、中村晃さんは身長が高くとってもダンディーな紳士だった。ロンドンの日本レストランでご馳走になった時、「ハービーに言っておくけど、男はね格好良いってことがとても大切なんだ」と教えてくれた。その言葉以来、僕は背筋を伸ばして街を歩くようになったと思う。
中村さんは元々日本航空の社員で、ビートルズが初来日の時、タラップを降りてきたビートルズに、JALと書かれたはっぴを着てもらった演出に関係していたと聞いている。その後、渡辺プロがロンドンに支店を開く時、渡辺社長と大学が同じということで、JALから渡辺プロに転職し、僕らは中村さんと交流を持つこととなった。その後中村さんは渡辺プロを辞め、バージン・アトランティック航空の日本支社の初代社長、そして定年後、AIR DOの立ち上げに尽力した。
2011年度日本写真協会 功労賞を受賞された、現東京都写真美術館館長で資生堂の福原義春氏とは慶応幼稚舎からの同級生であった。
加藤ひろしさんは、大阪で活躍したミュージシャンで、坂本スミ子さんのヒット曲も作曲し、フェイシスでベースを担当していた山内テツさんとほぼ同時期、イギリスに溶け込んだ草分け的日本人アーティストではないだろうか。 エイジは、これも大変ユニークな日本人で、BRITHSH EQUITYという英国役者協会の正式な会員で、この協会に入らないと英国内でプロの役者として仕事が出来ないのであるが、彼はごくごくまれな正式会員だった。映画「エレファントマン」では見世物小屋での檻の中に閉じ込められた奇妙な人間を演じ、また、「ブレードランナー」では、映画の冒頭に雨の降りしきる夜の歌舞伎町なのか、疲弊した東洋の街が出て来るが、このシーンのバックに流れる日本語とも聞こえる奇妙なナレーションを彼が演じている。さらに、1970年後半、東南アジアにある英国人女性捕虜の収容所を題材としたBBCの人気テレビドラマ「TENKO」(点呼)で彼は日本人の兵隊を演じ、僕は一話だけの出演だったが彼と同じ兵隊役で共演している。 また、1896年、イギリスのインディーズの劇団の企画制作による、「DEAD WOOD」という人間と自然界との摩擦を描いた劇が、キュー・ガーデンという広い公園の閉園後の夜、全敷地を使って上演されたが、この中でエイジと僕は、1時間半、木の上に登りっぱなしで2匹のオラウータン役を演じた。

ユカちゃんは、1975年当時、働いていた日本レストランに、偶然に食事に来た寺山修司さんを、その翌日に僕に紹介してくれた。寺山修司さんはエジンバラ映画祭に招待されて訪英中だったが、僕はエジンバラに同行し、そこで出会ったのが、日本や香港映画にとても興味を持っていた、ケンブリッジ出身の映画評論家、トニー・レインズだった。 彼と僕は、日本の無声映画や小津安二郎の映画の英訳を何本もして、ロンドンで日本映画特集があるたびに大忙しだった。そして、毎年僕のビザ延長を申請する手紙を役所に提出する時には、正式な文章をタイプアップしてくれ、僕の人生に大きく貢献してくれた人物である。 そしてトニーは、その後北野武映画をヨーロッパで大絶賛した最初の英国人評論家だった。
そして、何よりも同居していたイギリス人女性Fであるが、彼女は、パンクロックが世に知られる以前、1974年頃、ビビアン・ウエストウッドやマルコム・マクラレンと遊び仲間で、NO.10 Charring Cross Roadの部屋に集まり、とにかく全員が世に出ることに全てを賭けていた。この頃の彼女は、この仲間うちにいたシッド・ビシャスのガールフレンドの一人であったという。

まだ若いから乗り切れた試練と、まれにある喜びにもまれて毎日を異国で過ごしていた、明るい将来など何も見えてこなかった、ただ写真家になることへの情熱だけに支えられていた僕の29歳での一年であった。

2011年、とある朝、ふとラジオを聞いていたら、副交感神経の大切さを語っているドクターが出演されていて、「今日一日で一番良かったことと一番嫌だったことを日記に書くと、冷静に自分が見つめられて、副交感神経が活発になり、強いては長生きにつながる」とおっしゃっていた。
「1979年の年記」だが、当時そんな知識も無かったけれど、ぎりぎりで生活していた僕の自分を守る本能が、こうした一年を振り返る文章を書かせたのかな、と今になって思っている。
是非、皆様も日記、年記を書いてみることをお勧めしたい。