TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 >第82話 『コンタクトシートが語る尾崎豊』 ![]() 【写真展開催のお知らせ】 第82話 『コンタクトシートが語る尾崎豊』僕が尾崎豊さんを撮影したのはたった2回である。1991年、尾崎豊さんの事務所から電話を頂いたのが始まりだった。 BIRTH TOURのリハから入って横浜アリーナのステージまでを撮影して欲しい、そして、これは本人からのリクエストだということを告げられた。 このツアーに即した撮影コンセプトは,尾崎豊さんの素顔を全面に押し出すとことだった。従って撮影時には、特にポーズや決めた表情を要求せず、一貫してスナップで撮るという手法だった。僕の得意とするところだった。彼は撮影直前になって、カメラマンの指定を覆すことがあったという。 この撮影の前夜、担当者は尾崎さんに「明日の撮影はハービー・山口でいいのね??」と何度も本人に確認したということだった。それほどまでに被写体になる自分自身とカメラマンとの呼吸を、その都度大事にしていたのだろう。 撮影はスムーズだった。驚いたのは、それはリハーサルであるから、彼はお客さんが誰一人いるわけではないのに、鏡が壁一杯に貼付けられた無機質なリハーサルスタジオで、力を抜くことなく、僕が思わず1〜2歩後ずさりする程の迫力で自分の世界に入り込んでいたことだった。まさに尾崎さんのその場で全力を尽くす飾らぬ素顔であった。 一週間後、六本木のホテルアイビスで落ち合った僕は、尾崎さんから直接、彼自身のセレクションが終わった10枚のコンタクトシートを受け取った。 彼は、頭が床に着きそうなくらいに深々と上半身を折り「ありがとうございました」と礼を言いながら、僕に丁重にコンタクトシートを差し出した。そこには黄色のダーマトでOKカットとNGカットがはっきりと書き込まれていた。僕がふと不可解に思ったのは端正に写っているカットにNG印のバッテンがされていることだった。OKカットの多くが、ブレていたり、少しピントがずれていたり、または後ろ姿だった。 1992年4月25日、日本中が彼の訃報に揺れた。 後日、セント・ギガという放送局で、尾崎さんを忍ぶ12時間にも及ぶ特別番組が企画された。尾崎さんの発表した全曲を流し、所々に尾崎さんの書いた詩を盛り込むという内容だった。 この番組の声の出演を全て僕が担当することになった。番組のイントロ、曲紹介、ナレーション、詩の朗読を僕が一人でするのである。 収録が始まって数時間が経った頃だったろうか。監修の平山雄一さんが、僕の朗読を聞きながら「尾崎が降りて来てるよ!!」と突然言ったのである。 ブースの中でマイクに向っていた僕は、その時初めて、コンタクトシートにバツ印を書いた尾崎さんの心をいくばくか理解した。彼の心の中に渦巻いていた社会への矛盾、焦燥感、孤独感、、。前向きに振る舞おうとしてはいても葛藤があった。そうした彼の心の奥底を正直に表現しているのは、ただ端正に撮れている顔ではなく、ブレたりボケたりしているカットだったのだろう。 後日、ある雑誌がこの一連の写真から数枚を使いたいという要望がきた。僕はOKカットの中から柔らかい笑みを含んだ表情を数枚選んだ。何故ならこの撮影に際し、彼が選んだ写真家に対する最大限の好意が生んだ柔和な一瞬を、僕は見逃さなかったからである。 |