TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 >第92話 『パレスティナの恋 、空遠く』 ![]() 【写真展のお知らせ】 ![]() ![]() 第92話 『パレスティナの恋 、空遠く』僕が初めてパレスティナを体験したのはもう随分昔のことだ。1973年、僕が23歳の時、何とか写真家になりたいという想いを胸にはじめての海外生活をイギリスの南部、ブライトンという海岸に面した街で送っていた。滞在し始めて2ヶ月後、世界を駆け巡ったのがオイルショックという言葉だった。アラブの産油国が石油の輸出を制限したのだ。日本では、市場からトイレットペーパーが無くなるという噂が広がった。このニュースをイギリスでおぼろげに聞いた僕は、産油国に行って彼らの生活を見てみたいという好奇心にかられた。石油を売って富みを得ている国の生活を見てみたかったのだ。丁度、英語学校は12月の下旬に入り一学期が終わる時期だった。折角友達になったのに、生徒たちはそれぞれの国へ帰ってしまうのだった。ほとんどがイギリスに戻ってこない様子だった。初めての外国人の友達である彼らとのお別れは寂しいものである。僕は日本に帰る計画もなく何とかイギリスにかじりついていたいと思っていた。このイギリスでの生活が、僕にとって何もかもが新鮮で、新たな自分の可能性や好奇心を見届ける人生に残された唯一の時間だと思っていた。そこで学校で知りあったクエート人の若者たちに聞いてみた。その内の一人、18歳の男性は僕と同じ家に下宿していた。「君たちの国に行くから泊まらせてよ」。彼らは一様に頷いてくれた。そうした彼らを頼りに初めて中近東にカメラを持って旅することになった。こんな積極性が僕にあっただなんて、自分でも信じられなかった。 あれから40年という長い月日が経ってしまった。2013年10月、KnK「NPO国境なき子どもたち」よりパレスティナに旅する機会を与えられた。KnKとはこの1〜2年、東北での活動を撮影する仕事をしたことがあったが、僕がパレスティナを旅するとになるとは思いもよらなかった。フリーランスの写真家という職業の醍醐味を実感し、そして1973年のクエートで出会ったパレスティナ出身の彼女のことが思い起こされた。 行きも帰りも一人旅である。 分離壁は2008年に着工され、現在では約788kmの長さに及んでいるという。1989年に壊されたベルリンの壁も撮影に行ったが、3メートル位の高さだったと記憶している。それに対しこの分離壁は8メートルあるのだという。時に高台から、その分離壁は万里の頂上の様に見えたり、また所によっては一直線ではなく、一軒の家を取り囲む様に非常に入り組んだ所もあった。一軒の洒落たレストランに行った。大きなガラス張りの店作りで、壁が出来る以前は良い眺望が得られていただろうに、現在は目の前に壁が立ち塞がり、全ての眺望を奪ってしまっていた。また、その近くの新しい住宅は、土産物屋さんのお店と居住する住宅であるが、3方向をこの壁で囲まれてしまっていて、目新しい自分の部屋の窓からは、目の前の壁しか見えないのだ。 ところが、街を歩くと道ばたで出会う人々のほとんどがとてもフレンドリーな笑顔を見せてくれた。店に入って水やパンを買うと、その歓迎ぶりはさらにアップした。 ある日の夕暮れ、僕と佐藤氏は食料品屋さんと隣の羊の肉を売る店のご主人と話していた。肉屋さんのガラスのウインドーには3センチ大の穴が空いていて周囲が放射線状にひびが入っていた。先週起こった投石や催涙ガス弾の応酬で、この穴が開いたという。「怖くて店の中の大きな冷蔵庫の中に隠れたんだ」そんな彼らは口を揃えて言った。 僕の写真は相変わらずスナップ・ポートレイトとでも言うのだろうか、人と会話をしながら、その人らしい表情が浮かんだ時にシャッターを切っている。パレスティナの人たちはとても奥深く美しい瞳を持っている。特に少年少女の瞳には僕の心のすべてを吸い込んでしまいそうな魔法の力が宿っている。そしてことさら感動的だったのは、自分の国がやがては無くなってしまうかも知れない現実を何年も何年も実感しているのに、決して彼らの瞳は濁っていないのだ。そうした瞳を見た時、僕は彼らのパレスティナ人としての誇りを撮れば良いのではないかと思い始めた。そうした想いでカメラを彼らに向け始めた。だがファインダーの中に確実に彼らの瞳にピントを捉えた時、ふと見せるある種の感情、、。それは優しさの中に漂うどこか悲しさだ。その瞳は1973年、クエートの大学で見かけたパレスティナの女学生の瞳と重なるのだった。あの彼女はどうしているのだろう?今60歳くらいになっている筈だ。どこかで幸せを掴んでいるのだろうか。 10日程の滞在の最終日、KnKに良く来る家族が、この国の一番のポピュラーなご馳走である、チキンとご飯を一緒に炊いた料理を僕に振る舞ってくれた。「あの家庭の経済はかなり困窮してますから、多分2〜3日分の食費を節約して料理したと思いますよ」と佐藤氏は教えてくれた。 23時過ぎに出発の帰国便だったが、夕方前には空港に向かわなくてはならない。検問や空港での厳重な荷物チェックに備えなくてはならないからだ。空港へ移動する1時間前、KnKに集まる子供や先生、それと顔見知りになった近所の子供たちを連れて、歩いて10分ほどのところの壁に行った。彼らに横一列に並んでもらって写真を撮りたかったからだ。これがパレスティナの最後のカットとなるだろう。そこに行くには急な坂を登りつめなくてはいけない。その坂を子供たちと競争しながら登ったが、僕はすぐに息が切れてしまった。10代半ばの女の子たちははしゃぎながら急な坂も意に介せず、笑い声をあげ駆け足で僕を追い抜いた。一人の女の子が僕を追い越し際に、恥ずかしそうにたどたどしい英語で「I Love You!」と言ってすぐに後ろ姿を見せた。彼女はいつも僕を見つけるたび、真っ先にカメラの前に駆け寄って来てくれた子だった。ちょうど傾き始めた午後の太陽が、彼女の揺れる黒髪を明るく輝かせていた。坂の頂上にある壁に着くと、高い壁の上端ぎりぎりに太陽がひっかかっていた。その光が横一列に並んだ彼ら彼女らを美しく照らしていた。これでこの国とお別れしなくてはならない。切なさと、皆と友達になれた嬉しさが交差する中、最後のシャッターを静かに切った。 地球の中の出来事の一つが、2台のカメラの中と、僕のこころの中にしまわれた。 |