第96話 『信じる道』
昨年の中頃から、ロンドンにいるイギリス人の知人数名から連絡があった。聞けば2016年はパンクロックが生まれて40周年の記念年になるという。こうしたタイミングでイギリスのテレビ局のいくつかが、パンクロックをテーマにした番組を制作していて、その友人たちは取材を受けていたり、またある友人は番組の主人公になるような企画に出演するのだそうだ。
あれから40年、まさに1976年、私自身が20代の半ばで経験したロンドンの日々の中の出来事であった。ロンドンのどこを歩いていても、何か新しい風が吹いている様な時代で、街行く若者たちのファッションや音楽は、日本人の私にはとにかく刺激的だった。こうした空気は1980年の初頭まで続いた。モヒカンをなびかせ、革ジャンとドクターマーティンのブーツをまとったロンドンの若者の姿は、私にとって極めて刺激的で絶好の被写体だった。時代の流れは誰にも止められない。パンクロックが出現しあっという間に2〜3年が過ぎると、イギリスの若者の口からはパンクという単語ではなく、ニューウエーブという言葉が聞かれる様になった。通りかかったミュージシャン然とした若者に「どんな音楽をやっているんですか?」と尋ねると、その多くから「ニューウエーブ」という単語が返ってきた。マーキーやライシアムといったライブハウスではパンクロッカーたちが雄叫びを上げていたが、時代が1979年から1980年に差しかかると、ビリーズというクラブにはニューロマンティックスと呼ばれる、早くもパンクの後のムーブメントが起こっていた。彼らはクラブを移動しながら次のムーブメントを担っている若者たちで、その中でも美容師だったスティーブ・ストレンジがこのムーブメントのリーダーであった。彼らが集まったクラブはいくつかあるが、特に有名なのはブリッツで、毎週木曜日の夜から深夜に繰り広げられるシーンは、パンクの出現と同様に刺激的だった。音楽の性格は、荒々しいパンクとは対極にポップ性を帯び、見かけも破壊的なパンクとは対極の、繊細な工夫を凝らしたメイクと衣装は、カラフルで常識を覆すものだった。1980年の前後の数年は、パンクとニューロマンティックスが混在していた時代で、ロンドンの若者はこの両方を経験した。その上でより自分が信じられるスタイル、手段を選択し自己主張を続けていくこととなった。パンクスたちは街の壁や革ジャンの背中には「PUNK IS NOT DEAD」の文字を書きなぐり自分たちの信念を主張した。この頃の私には、強烈な記憶が幾つかある。その一つは1979年だったか、ロンドンの中心街にあるグッジストリートの36番地で、数人のイギリスの若者とフロアーをシェアしていた。その中にジョージという、すこぶるフレンドリーな青年がいた。彼はニューロマンティックスが集まるブリッツの常連で、彼を初めて見かけた時の美しさを今でも鮮烈に憶えている。その彼が数ヶ月後にカルチャークラブのボーイ・ジョージとなり、たちまちにして当時の世界の寵児になったことだ。さっきまで一緒にいた人間が、全く手の届かないところへ行ってしまった。自分の世界観を音楽とファッションという手段で表現し、それが時代の求めているものと合致した場合、その勢いは凄まじく、あえて例えれば、ものすごい速さで駆け登る人生のCLIMB(クライム)だった。
もう一つの思い出は、1981年、私が地下鉄のベイカーストリート駅から自宅に帰る時、人気パンクロックグループ、ザ・クラッシュのボーカル兼ギターリスト、ジョー・ストラマーを見かけ、ホームで2カット、地下鉄車内で数枚の写真を撮らせてもらったことだ。プライベートな状況だったので、カメラを彼に向けるにあたっては、持ち合わせていた勇気を全て使い果たす覚悟で、私は丁重に撮影のお願いをした。その結果、彼は快く私のカメラを受け入れてくれたのだった。
昼下がりの車内は空いていた。ウエストボーングローブ駅で地下鉄が止まったところで、私はカメラをブラすことなく最後に一枚のシャッターを切った。彼の柔和な表情が私を安心させた。降りようとする彼の後ろ姿を見つめていた。ドアーが開く寸前、彼は振り返り言ったのだった。
「君な、撮りたいものは全て撮るんだ。それがパンクなんだから!」
この言葉を私に放った時の、彼の優しい、しかし信念に満ちた表情と、ゆっくりとした口調を今でもはっきりと覚えている。
最後の一言は「That's Punk!!」であった。
この彼との出来事は私が31歳、日本を出発して8年目、まだ一度も日本に戻らず、写真家になることにもがいていた頃で、そんな私に途方もない勇気を与えてくれたのだった。
「信じた道があるなら、その道を迷わず進めよ!何を躊躇しているんだ、勇気を出せ、妥協するな!!」
この日から、私の人生はもっとポジティブになっていった気がする。
あれから、35年が過ぎた。今まで私はトークショーや授業、そしてエッセイを書く機会に恵まれる度に、このジョーとのいきさつを持ち出すことにしている。パンクを知らない世代にも、またロンドンや音楽に興味がない方々にも幅広く共感を呼び、勇気を与えることが出来るのだ。
2015年の秋だった。私は日曜日の早朝、J-WAVEの平井理央さんの番組に呼んで頂いた。ゲストの経歴、人生観、個性を巧みに引き出し、リスナーに的確に伝える素晴らしいインタビューだった。その放送でも私はジョーとのエピソードを語った。
数日後、番組宛てに届いた何通かのメールを読んだ。
その中にこんな一通があった。「トラックドライバー、50歳」という書き出しで、概略は次のようだった。
「運転中、ラジオからハービーさんのロンドンでのパンクのお話を聞き、私は思わずトラックを止めて泣きました。実は私が20歳の頃、写真家になりたくてカメラをもってヨーロッパの何カ国も旅して回ったものです。でも写真家になることがないまま、やがて結婚そして子供が出来、生活費を稼ぐためにトラックに乗り始めました。一生懸命走りました。気が付いたらあれから30年、自分は50歳になっていました。でも、今のハービーさんのパンクの話を聞いたら、もう一度カメラが握りたくなりました。遅すぎませんよね、ハービーさん!?」
パンクがロンドンに出現してから40年、ジョーの一言の魔法と言ったら良いのだろうか、今だにPunk is not Dead!を実感するのだった。
おそらくこのドライバーは、この30年、トラックを運転しながら、窓越しに街や人々の様子を見てきたに違いない。乗用車より高いトラックの運転席から見ていたもの。横断歩道を渡る買い物帰りの姿。歩道にたたずむ恋人たち、店先を曲がって消えていった老人の後ろ姿、黄色い帽子の小学生の列。時に雨の日のワイパー越しに、時に風の強い日の午後に、暮れなずむ都会で、田舎の坂道で。かつてリンダ・マッカートニーが、乗用車の窓越しに撮影した作品で構成された写真集を見たことがある。それとは別にトラックを駐車した折を見計らい、50歳の彼が感じたものをふとカメラに収めることは出来ないだろうか。画面にウインドーの枠やワイパーの形に残った汚れが映り込もうが構わない。もし、安全な方法でドライバーの高さから見た人生の様々な瞬間を撮ることが出来たとしたら、それこそが彼の視点なのである。トラックドライバーによる、窓越しに人生を綴った写真集。もしもこうした撮影が可能なら、彼の30年間は決して無駄ではなく、むしろ社会や人々を観察していた貴重な時間になるのではないか。
写真家になる日とは、カメラを手に入れた日のことではなく、撮りたい被写体に出会った日のことなのだと改めて思う。