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ジョセフ・クーデルカ TOKYO 2013
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第91話 『写真家、それぞれの旅路』

23歳の時にイギリスに旅たち、何とか写真家になろうともがく日々が続いていた。予想外ではあったが翌年、ロンドンに拠点を置く日本の劇団、ツトムヤマシタのレッドブッダに役者として加わることとなった。
日々の生活費を稼ぎ、ビザの延長をもくろむ目的もあったが、かつて中学生の頃、芝居をすることに興味を持った時期があったので、その好奇心を満たす良い機会であった。オーディションを受けたら偶然受かったのだ。
ロンドンの公演ではミック・ジャガーが見に来る程の話題の劇団だった。ロンドン公演、ヨーロッパツアーとして数カ国を旅し、丁度100回の舞台出演を終えた区切りに退団を決意した。僕が名優になれる筈もないし、やはり当初の目標からぶれることなく写真家になる夢を全力で追い求めなければという強い決心に至ったのだ。入団から半年後のことだった。
劇団から退団することは、収入もビザの更新も全て頼るものは無くなってしまうことを意味したが、後先のことはあまり考えなかった。今所持しているお金とパスポートに押された滞在期限が僕の一生で夢を追うために許された自由な時間だった。数ヶ月後には日本に帰国しなければならなくなるだろう。

1975年のとある春先、レスタースクエアにあるフォトグラファーズ・ギャラリーに行った。世界からの優秀な作品が集まって来るロンドンでの有数なギャラリーだった。
ここで偶然会って立ち話しを始めたクリスとエイドリアンという、恐らく僕と似た様な歳の、つまり20代半ばのイギリス人の青年2人と気が合い彼らの住所をもらった。
翌週、その住所を訪れるとそこはロンドンブリッジの近く、すぐ先にテムズ川が流れる倉庫街にある4階建ての倉庫であった。こうした倉庫は大抵が倉庫としての役割を時代の流れと共に終え、多くの倉庫が少しリフォームすることでアーティストのスタジオ兼自宅として使用されていた。

僕が訪れた倉庫も同世代の写真家が10人程で構成する写真家グループの活動拠点として使われている場所だった。彼らの目的は、1977年に開催を予定している「クオリティー・オブ・ライフ」という名称の大型グループ写真展の制作だった。
地下に大きな暗室があり,4階には天窓のあるミーティングスペースがあり、何人かが居住していた。イギリス産業の遺物であるこうした倉庫は築後50年、もしかしたら100年近い古い建物で、かなり老朽化が進んでいた。

倉庫を訪れたことで、グループの何人かを紹介され、暗室を見せてもらった。
その瞬間に写真熱が沸騰する自分を感じた。その日、100枚入りのキャビネ印画紙の箱を彼らからもらい、夜から朝方まで暗室を使わせてもらって、イギリスやヨーロッパで撮ったネガから100枚のプリントを仕上げた。

翌朝、そのプリントを是非見て頂こうとグループのディレクターであるドイツ人のヨーガンに預け、再び倉庫を訪れたのは一週間後だった。思いもよらぬ言葉が僕を待ち受けていた。
「君の写真を見たが素晴らしい写真だ。丁度我々が進めているプロジェクトのテーマとも同じ方向だ。グループで討論したんだが全員の希望で君をこのグループに迎えたい!今日から空き部屋に引っ越して来たって良いんだ。スポンサーがいるから、フィルムも印画紙もここの家賃もまかなってくれている、、。ビザの更新は皆で協力しよう。」
僕はその場で参加を受け入れ、彼らの一員になったのである。いくら偶然の出会いがきっかけであっても、僕にとっては夢の様な出来事だった。

彼らとおよそ2年間の準備期間を共にした後、完成したばかりののナショナルシアターでの大規模写真展が6ヶ月の長期に渡って展示された。総点数300点以上、その中に僕の写真30数点が含まれていた。
その後、フランスのニエプスの生家のある街のギャラリーで数ヶ月展示された。そうした発表の後、ロンドンの幾つかの写真展のオープニングパーティーに行くと
「あなたの写真は、あの写真展の中でもベストイメージとして目立っていましたね。」
と度々言われ、顔見知りの写真家が増えて行くのを実感した。

この彼らとの倉庫での3年間の活動中,倉庫には多くの人が訪れて来た。
フォトグラファーズ・ギャラリーのディレクターのスー・デイビス、マグナムの写真家であるイアン・ベリー、タイムズの映画評論の主筆でチャップリンの研究家でもあるデイビット・ロビンソン、同じく映画評論家でタイムアウトの主筆トニー・レインズ。映画監督デレク・ジャーマン、、。そしてマグナムの写真家ジョセフ・クーデルカであった。

ジョセフ・クーデルカは1968年のソ連のチェコの侵略以来、祖国を離れ、フランスやイギリスを一人旅しながらジプシーや目の前に拡がる光景を独特の視点で撮っていた。
彼はいつも決まってカーキ色のミリタリージャケットを来て,茶色の丸いメガネをかけていた。胸にはライカM3やM4のブラックボディーをきまって2台ぶら下げていた。初めて彼に会った日、ジョセフに写真を撮っても良いかと尋ねたことがある。何と言っても彼はマグナムの写真家だ。記念に一枚でも写真を撮ってみたかった。
「良いけどね、でも自分が気付かない時に撮って下さいよ」彼はとても照れ屋なのだった。
このグループの写真家もディレクターのヨーガンも他の写真家もお決まりの様にライカを使っていた。一人の例外がオリンパスOM1を使っていたイアン・べリーだった。ニコンFとSPを使っていた僕は興味深々で彼らのカメラを観察していた。

そうした日々、ジュセフは僕の部屋が一番広かったので何度か泊まっていったことがあった。
その度に、ジョセフと僕の、写真を見せ合いながら時間を過ごした。最近撮った写真を見せ合ったこともあったが、その中に、僕が数年前に撮った、スペインの小さな村でのおじいさんが数人写っているプリントがあった。それをジョセフはとても気に入ってくれた。
「君の写真でさ、クエートの金持ちの男がベッドの中にいる写真ね、あれを皆良いって言ってるけど、僕はこの写真の方が好きだな、君らしいよ、、」
そうした会話が僕にはたまらなく嬉しく刺激的で名誉で、ロンドンでなければあり得ない成り行きに感動していた。

彼はブレッソンに認められてマグナムに入ったものの、帰る国もなく、ヨーロッパをさまよいながら、ジプシーや人や風景を撮っていた。
僕の関心事は、彼に「一人でいて寂しくないのか、写真家になって後悔するようなことはないのか?」と質問してみることだった。
僕はと言えば、開催されるグループ写真展のことを思うと胸が高鳴ったこともあったが、家族が一緒にいるわけでもなく、ましてや27年間恋人とか生活を共にする親しいパートナーがいたわけでもなく、僕の心は常に寂しさでおののいていた。だが20代という若さだろうか、寂しさに耐える強さをギリギリ僕は持っていたし、一人で過ごした方が、より温かかい人の写真が撮れるのだと信じていた。

ジョセフは寂しさについて肯定も否定もしなかった。両手を左右に大きく開いただけだった。でもその仕草から彼だって寂しいんだとその時感じた。
彼は「一度決めたら、思い悩まないさ。」とも言った。言葉の上では彼には弱さの微塵も感じられなかった。せめてこの言葉を聞いただけでも僕はすごく心強かった。寂しさや貧困に負けないで、写真を一枚でも多く心ゆくまで撮ることが、僕の夢なのだと改めて強く思った。

彼と再開を果たしたのは2011年、東京都写真美術館での彼の個展のレセプションの時だった。実に30年振りであった。数日後彼から電話があり、宿泊先の山の上ホテルに彼を訪ねた。僕たちはホテルの地下のバーに行きビールとピザを注文した。彼への色々な質問が頭をよぎった。
「マーティン・パーさんがマグナムの会長ということですけど、大分かつてのマグナムの雰囲気が変わったのでは?」
「同じタイプの人間がずっと組織の中心にいると組織はやがて古くなるんだ、常に活性化していかなくてはならないのさ。」
「現代美術的な写真をどう思いますか?」
「誰が何をどう撮ろうと、それは勝手だから、誰も止める必要なないさ、でも俺は撮らないけどね、、中には自分の人格を表面に出さない写真家もいるんだよ。それぞれのスタイルなんだろうけど。」
「僕は駄目な写真家ですか?」
そんな質問に彼は笑いながらこう答えた。
「さっき見せてもらったロンドンの写真集ね、あれはまさに君自身が写っている。あの時代から君の写真はそうだった。Be yourself. それが一番大切なんだよ」
「2年後にまた東京で写真展を開くことが決まっているんだ。その構想を見せるから部屋に来ないか。」

彼の部屋に入るや、彼はベッドの上に置いてあったズミクロン35ミリの付いたM6TTLをさっと取り上げると、僕に向けてカメラを構え、一瞬のうちに一回のシャッターを切り、カメラをベットの上に放り投げた。その間0.5秒であった。
彼の撮影の素早さはロンドンで見た時から同じで、撮影したのかしなかったのか、判別出来ない一瞬の動きだった。レンズには鏡胴に楊枝かマッチ棒の様な細い棒が接着してあり、手探りでピントの距離が測れる細工が昔から施してあった。僕は持参したやはり35ミリ付きのMPで彼の表情を少し観察し一枚シャッターを切った、その間2秒、それぞれの撮影の呼吸を見せながらの撮り合いだった。

彼は2年後の2013年に、東京国立近代美術館で開く個展に展示したいという構想を話してくれた。
別れ際、竹で作られた日本酒を飲むぐい飲みをお土産にと差し出したが、
「僕の人生はとてもシンプルで、部屋には最低必要なものしか置いてないんだよ。これで君がお酒を飲むたびに僕のことを思い出してくれたら、そっちの方が嬉しいんだ。」
「ジョセフ。あなたもロンドン時代から全く変わっていませんね!」
深夜、僕は山の上ホテルを辞した。爽やかな風が駿河台の上に流れていた。

2013年4月になった。近代美術館で開催される写真展の打ち合わせのための再来日した彼は、再び連絡をくれた。マグナムのオフィスで会い、前回撮った彼が写っているポートレイトの8X10のプリントを差し出した。とても気に入ってくれた様子だった。
「せめてこの写真は是非持って返って下さい。」
「うんうん。」
そう言うと大事そうにプリントを封筒に中にしまった。そして僕が持参したパソコンでスライドショーを彼に見せた。
シド・ビシャスの歌うMY WAYに乗せて、3.11で被災した東北の方々のポートレイトを写した作品だ。
3分半の長さの曲だが、音楽は詳しくないという彼であったが、曲が進むに連れて次第に彼が画面の中に吸い込まれていく様子が見てとれた。最後にはじっと画面を抱き込む様に見入っていた。
スライドが終わり、JAPAN the country of the rising SUNという文字が出ると、「こんな写真をみんな撮っているのかい?!」と紅潮した顔を上げて、僕と周囲にいた人達の顔を見回した。少なからず感動というか驚いてくれた様子が嬉しかった。その後二人で、神田小川町の居酒屋に入った。ビールで近代美術館の開催を祝い乾杯した。

ここでの会話はいつも通り写真の話になった。
「パノラマの写真はね、フジの中版を使っているんだけど、パリではフィルムの現像代がとてもかかるんだ。経費だけでも馬鹿にならない。それに荷物が30キロ近くになっちゃってね。そこでライカのS2をパノラマのフォーマットに特別に改造してもらって次回作は撮ろうと思っているんだ。ところでさっきの東北の人達のポートレイトだけど、良くあそこまで人々とコミュニケーションを取れたもんだ!」
ビールは二人とも1杯か2杯で済んでしまう。そして日本に居酒屋のどんな料理だって平気だ。おそらく世界中旅しても彼は食事に好き嫌いはないのだろう。

居酒屋を出たところで別れ際に彼のポートレイトを撮りたいと思った。ライカM6にズミタール50ミリが付いている。
「この路地で一枚撮って良いですか?」
「Of cause Yes!」
カメラを正面から見つめる姿が夜の街灯に浮かび上がってことさらに印象的だった。その視線には照れ臭さはもはや無く、お互いを分かり合った深い視線で結ばれていた。

再び彼と再会する日が思いも寄らずにやってきた。 2013年の10月下旬、彼は近代美術館の展示のために開催日の一週間程前に来日し、ホテルから電話をもらった。水道橋にある、新しくでお洒落なホテルだった。
待ち合わせ時間を少し回って、彼はロビーに降りて来た。そして彼の娘さんを紹介された。26歳というそのお嬢さんの美しいことといったらなかった。長身に可愛らしい顔つき、長い髪、インテリな振る舞い。パリに住んでいるという彼女は、ファッション誌のモデルになっても充分引き合いはあるだろう。 会うやいなや、彼と僕はお互いの肩に腕を回しがっちりと抱き合った。
一言目が、「あの時のプリントは持って来たかい?」であった。前回の来日の時に最後に撮った夜のポートレイトのことだった。バライタ紙に焼いたプリントを、万が一見せられればと思って持参したのが幸いした。
「ええ、持ってきましたよ。」と封筒からプリントを引き出し彼に手渡した。
「ハッハッッハッ、いいね!」とプリントを見た瞬間彼は大声を上げて笑った。お嬢さんも横からプリントを覗き込み、「いいわね!」と小さく言って微笑んだ。その親子の姿がとても愛らしく素敵だった。

僕たちは駅の近くの居酒屋へ行った。毎回居酒屋であるが、かしこまった席は我々には似合わない気がした。
4人掛けのテーブルにジョセフと僕は隣同士、そしてジョセフとお嬢さんは向き合って座った。
今日の彼はいつになく饒舌だった。きっと大きな写真展が控えている幸せ感と、素敵なお嬢さんとこうして遠く日本まで来ていることがいつになく彼を幸せにしているんだと想像した。
僕はジプシーの写真を例にとり、どうして被写体にカメラに意識させることなく自然な撮影が出来るのか尋ねてみた。返って来た答えは
「彼らの一員になることさ、前回撮った写真を見せるとか、色々しながら一緒になることさ。」
「では、アイルランドで撮った、地元のおばあさんが数人カフェにいる写真があるんですけど、あれは?」
「それが、その時の状況を憶えていないんだよ。」
「どの写真か分かります?」と僕は彼に確かめた。
「分かっているよ、でも良く憶えていないんだ。でも雪の中に犬が横切っている写真がわかるかい?あれはねとっさに犬が横切ったから、ファインダーを覗かずにシャッターを切ったらああいう構図になったのさ!」

「興味深い話しがあるんだ。色んな国の入国の時に、国籍を書く欄があるだろ、そこにチェコと書くと必ずNDという2文字を上書きされるんだ。 そこで監査官にNDってどういう意味なのか聞いたんだ。答えはNationarity Douted, つまり俺は国籍不明ってことなんだな。空港の別部屋に連れて行かれたことだってあるさ。何時間もかかって入国するんだ。その部屋にはどこの国籍か分かれない不思議な人種が沢山入れられているんだよ」

僕もかつてロンドンで似た経験をしたことがあった。
「ええ、分かりますよ、かつてロンドンから中近東に撮影に行って、ヒースローに戻ってきたものの、その大部屋でかなり調べられました。10年の滞在の中で別部屋を何度か経験しています。」
本当にこの大部屋は奇妙な空間だった。様々な肌の違った、目つきの違った人間が大勢詰め込まれている。その中の一人が東洋人の僕に関心があったのか近付いて来た。
「お前はパスポートを持っているのかい?」
「ええ。ちゃんと持ってますよ。」
「なんだ!持ってるなら平気さ、間違えなく入国出来るだろう」そう言って,その男はつまらなさそうに去って行った。

ジョセフがある話しの途中に名言を言った。「写真とは、、!ネガをポジにする!!」
僕は「おーっ」という歓声を上げた。
そこにお嬢さんが問い正した。
「それって、お父さんの考えた言葉?それとも誰か他の人の言葉なの?」
「自分で考えた言葉さ!」
そんなストレートなことを言うお嬢さんに僕は言った。
「お父さんにとって、あなたはとても大きな誇りですよ!パリに戻って来る度にあなたに会う、きっとあなたはジョセフにとって、この地球上の大きなランドマークなんだな。」
ジョセフは僕の「地球上の」という表現が気に入ったのか、on this planetという言葉を笑いながら繰り返した。

お嬢さんとジョセフの会話の様子を見ていると、僕の頭をよぎる幾つかの感情があった。
イギリス時代にも、また日本で会った時も彼は少しずつ家庭のことは話してくれたが、僕から多くを質問したことはなかった。ただ想像するに彼の様に、自らがエクザイル、つまり放浪者になって写真を撮り続けていくには、いくら自分は一人で生きているといっても、どこかに友人がいて、どこかに愛する人がいて、どこかに親戚や血を分けた人がいるという事実から逃れることは出来ないのだ。その人達をそれぞれの故郷に置き去りにするにはかなりの葛藤と戦わなければならない。
写真家が自らの写真人生を生きて行く陰で、誰かに寂しさとか悲しみを与えていたとするなら、それについて我々はどう釈明したら良いのだろう。 僕自身がその一例だった。写真家になりたいという旅路を10年以上も続けていた。
23歳の時、両親に別れを告げ東京を発ったが、初めて両親の元に一時帰国したのは8年半後のことだった。そしてすぐまたロンドンへと帰ってしまったではないか。そしてある日、ロンドンの小部屋で日本からの電話によって父の訃報を聞いた。僕が写真家になる夢を追い求めた陰で,僕はどれだけ両親に寂しい思いと心配をさせていたのだろうか、、。
「あの小さくて体の弱い息子が、それも海外で写真家になんてなれるのかな、、?」
恐らく父が心の底に、僕の顔が記憶としてよみがえる度、イギリスの方向の空に向かって抱いていた心配であったに違いない。

ほぼ無意識に僕はお嬢さんに向かってこんなことを言っていた。
「君のお父さんの写真はね、お父さん自信が写真の中に写っている人と同じ孤独を背負い、旅しながらでないと撮れない写真なんだよ。小手先や要領で撮っているんじゃないんだ。だからあんなに強い写真なんだ。それを世界中の人達が賞賛している。新しい写真集WALLだってそうさ。人間から自由を奪う壁をお父さんは一番嫌っているだろう。その感情があの写真を撮らせたんだ。お父さんの写真には一人になることが、必要だったんだ。もしかして、君に寂しい思いをさせたかも知れないけど、、。」
下を向いて黙りこくって僕の言葉を聞いていたジュセフが突然声を出した。
「That's enough!」
次の瞬間、彼は僕を抱き寄せ、僕の頭を彼の胸の中に力一杯うずめたのである。そして沈黙が続いた。
だが彼の鼓動を通して僕には無言の声が確かに聞こえたのだ。
「もう、何も言わなくていいんだ。君が分かっていてくれるなら、もうなにも言わなくていいんだ、、。それに知っているだろう、俺は照れ屋なんだから!」

我々は会計を済まし、夜道に出た。もうすっかり寒くなった東京の10月の下旬だった。前回も夜の街でジョセフを撮った。今夜は美しいお嬢さんが一緒だ。
「どうか、そこにお二人で立っていて下さい。」
35ミリの付いたライカを向け、2回、3回シャッターを切った。するとジョセフが彼女の頬に軽くキスをした。優しいシャッター音がして、ジョセフの笑顔と,すこし恥ずかしそうにしている彼女の表情がファインダーの中に浮かんでいた。
夜の歩道を去って行く二人の姿は、束の間の旅の翼を休める父と美しい娘とが織りなす、とても穏やかな後ろ姿だった。