第100話 『ストロボが作った軌跡、奇跡』
「長時間露光にフラッシュ一発という撮影方法が意外と僕の写真家人生を助けてくれていたんです。」
これは、2017年のCP+で、ストロボメーカーのニッシンでのステージ上で繰り返し僕が発した言葉だった。
毎年2月下旬に開催される年に一度のカメラショーであるこのCP+では、僕は幾つかのメーカーの依頼を受け40分のトークショーをいくつか行った。
僕の写真のほとんどがアベイラブルライト、つまりその場に存在している自然光を使って撮影されているので、ストロボにはあまり縁がないというのが正直な気持ちだ。
だが、去年ふとしたことからストロボを買ってみようと思い立った。それはある雑誌のコンテストの審査をしている時だった。
現在、写真雑誌CAPA、アサヒカメラ、デジタルカメラマガジンの3誌で毎月コンテストの審査員を務めさせて頂いている。
これだけでも毎月4000枚〜5000枚の全国のアマチュア写真家が撮影した写真を見ていることになり、その中には、これは凄いなと感銘を受ける写真と巡り合うことがある。
昨年、そうした中にストロボを補助光として使い、主題を上手く浮き上がらせているカットが何枚かあった。
曇天や暮れなずむ夕日の中でモデルと撮影したものだが、よくよくその写真を見ると、目立たせないようにさりげなくストロボを同調させている。
かなりのベテランであろうか、良く見ないとストロボが発見出来ないという上手い使い方だ。
ストロボによって得られた補助光によって、モデルの輪郭や顔の表情のディティールを絶妙に描き上げ、写真を完成させている。
そんな入賞作品を選んでいる内に自分も影響され、ストロボを備えておかなければならないと思い立った。
そこで昨年の秋、ニッシンから発売されている発信機と本体2台を購入したという次第だ。
それから間もなくニッシンの國頭さんからお電話を頂いた。「CP+のニッシンのステージにご登壇頂けませんか?」
快く引き受けたものの、ふと話す内容に確信が持てなかった。ほとんどの写真をアベイラブルライトで撮ってきた僕に、ストロボの話が出来るだろうか?
写真の一般論ならどうにかなろうが、ストロボにテーマを置いたトークをしなければならない。
「特にストロボに特化したお話でなくても、ハービーさんの写真にまつわる写真家人生についてのお話で結構ですので、、」と國頭さんの言葉ではあるが、僕には大きな宿題を頂戴した感覚だった。
それから数日、時間があると自分の過去の写真を振り返ってみた。すると、意外なストーリーが浮かんできたのだ。
時は47年前、1970年に遡る。大学生だった僕は、青春の大切な1ページを写真家になる夢と共に生きていた。
当時は学生運動が盛んな時代で1969年には東大が学生運動の拠点の一つとなり、入学試験が中止になるという異常な時代だった。
学生運動の盛んな大学のキャンパスには、日常の光景としてバリケードが築かれていたり、授業が潰れて学生集会が毎日開かれて、さらに学生による過激なデモ行進が頻繁に実行されていた。
通例のデモ行進は渋谷の宮下公園や現在国立競技場が建設されているところにあった明治公園で集会をしてから出発し、国道246号、赤坂見附を経由し、日比谷公園まで行くのが大抵のルートだった。
そして、こうしたデモ行進とは別に新宿駅構内、東大安田講堂、神田の市街地、羽田周辺などで抗議活動が勃発した。学生が投げる火炎瓶やアスファルトを砕いた投石。それを取り締まる機動隊が学生に向かって放水、さらには催涙ガス弾の応酬で、死者もありまた逮捕者が続出し街やキャンパスは見るも無残に破壊されたのだった。
自分としては同世代の学生が、思想的にどこに向かって行くのかを知りたくて、カメラを携え幾つかのデモ行進の様子を撮影しに出かけた。
特にこだわる思想を持たない者はノンポリと称されたが、僕は正にこのノンポリの一人で、カメラと共にデモ行進の歩調を合わせて日比谷公園まで歩くことが、僕にとって精一杯のことだった。
1970年4月のことだった。18時頃か19時頃か、とっぷりと日は暮れていた。4000人とか5000人、それ以上が参加していたのだろうか、かなりの数の学生が集まり、いつものように明治公園でのアジ演説が終わり、セクトごとに隊列を組んでデモ行進が始まった。
デモが外苑東通りから国道246号に差し掛かったところで道路がいきなり広くなったからなのか、予期もせず、デモが、まるで生きている蛇のように左右に、つまりジグザクに行進を始めた。これは機動隊の取り締まりが始まる前に、デモ行進を強調させるための行動だ。
デモ行進の先頭には3メートル程の長さの竿を水平に持った学生が4〜5人いて、彼らがデモ行進の舵取り役を果たしジグザク行進が始まった。一種の興奮状態だった。
近くに外苑前の歩道橋があった。
とっさに僕は歩道橋にかけ上がり、その高さからデモを俯瞰した。彼らの描く曲線が正に蛇のようにうねっている様が見て取れた。
ふと思いついたのが、シャッター速度をバルブに設定し、ぶらすことでこの動きを強調しようというアイデアだった。歩道橋の柵のカメラを固定し、2秒程の露光をしていた。
28ミリの付いた一眼レフであったので、ファインダーがブラックアウトしているが、僕は真っ暗なファインダーの中に写っている筈の蛇行するデモ行進を透視していた。
不意に僕のいた周辺だけが一瞬だけ明るくなった。黄色の地に赤色で社名を記した腕章をした新聞社のカメラマンが近くにいて、僕の2秒間の露光中というタイミングでデモ行進に向けてストロボを発光したのだった。
その夜、日比谷公園の解散地点まで歩いた僕は自宅にとって帰り、フィルムの現像を始めた。現像液であるD-76を溶き、LPLのステンレス製の現像タンクに4本のリールが入る。通常10分の現像時間を14分に延長して少しの増感をした。
軽く水洗を終え、リールから数十センチフィルムを出すとあの蛇行したデモ行進の1カットが見えた。このカットさえ無事写っていたら今日は満足だった。
数日後このネガをプリントした。そこにはブレつつも蛇行するデモの様子が写っていたが、それに加え、ある注目すべき物が写っていて興奮した。
あの時、近くで偶然発光された新聞社のカメラマンのストロボが、僕の写真にも影響を与えていた。学生の姿がブレて写っている中に、ストロボが届く範囲の距離にいた学生の白いヘルメットがブレずに写っていたのだった。
長時間露光にストロボを組み合わせるという技法は、特に物珍しいものではいのだが、こうした状況で、しかも偶然の出来事としてこうした写真が撮れたことが驚きだった。
これにヒントを得た僕は、次のデモ行進の撮影では報道カメラマンのストロボを利用した撮影を試みた。大抵彼らのカメラには、ナショナルとかKAKOのストロボがついていて、光の強さの指針であるガイドナンバーをその外観から推量し、被写体との距離を目測し、F5.6とかF8に合わせた。そしてカメラマンの位置から45度程の角度に自分の身を置き、そのカメラマンがカメラを構え、シャッターを切る少し前に、僕はバルブで自分のカメラのシャッターを開けたままカメラマンがストロボを発光するのを待ち、発光直後に自分のシャッターを閉じるのである。
こうすることで、斜光により学生の表情が、まるでスタジオでライティングしたようにドラマティックに浮かび上がったのである。
このストロボと長時間露光との組み合わせで、当時20歳の僕の眼前に起こっていた、紛れもない現実を写真として記録出来たのである。
それから3年が過ぎた。僕はロンドンに住んでいた。写真家になりたい夢を追い求め、3台のカメラを携え大学時代の友人と共にイギリスに渡ったのだ。1976年のことだった。ロンドンで出会った一人のミュージシャンがいた。マイケル・シュリーブ。彼はアメリカのグループ、サンタナの2代目のドラマーとしての名声があった。
1960年代の終わりに公開されたウッドストックの音楽フェスティバルを記録した映画に10代の彼が颯爽と登場し、日本でのファンを獲得した。僕も大学時代に毎日のようにサンタナのアルバムを聴いていた。ブラック・マジック・ウーマン、サンバパティ、数々のサンタナのサウンドが当時のヒッピーや音楽ファンを始めとする多くの若者を熱狂させた。
そのマイケルがサンタナを辞めた後、僕と出会う機会がここロンドンであった。
僕が一時期、にわか素人役者として所属していた日本人劇団『レッド・ブッダ』を主宰していたツトム・ヤマシタさんのアルバムとコンサート『GO』に、マイケルはドラマーとして参加していたのだった。
ヤマシタさんからリハーサルやステージを記録するように依頼された僕は、マイケルを始めとする当時の錚々たるミュージシャンを目の前にしたのである。これが僕がミュージシャンを撮影した初めての経験だった。
そのコンサートからおよそ半年後、マイケルは自らのグループであるオートマティックマンを結成しロンドンに来た。彼を撮らせてもらう機会に、僕は再度恵まれたのである。有名なライブハウス、「マーキー」でリハーサルを撮らせてもらった。
前回とは違うカットを撮りたかった。そのリハーサルで僕がふと思いついたアイデアがストロボと長時間露光の組み合わせだった。
僕はストロボをカメラに装着しドラムの前に立った。彼の表情や動作がドラマティックな瞬間にシャッターを切った。そしてシャッターを開けたまま、カメラをおよそ180度回転させた。
帰宅後早速現像をした。彼のドラマーとしての迫力ある表情と姿、そして同時にステージ上の照明によって光っているドラムの金属部分が、ブレつつも光の線となって彼を半周取り巻いている映像が浮かび上がった。
翌日、このプリントを彼やマネージャーに見せた。その結果彼らの意識の中に、僕の写真家としての存在が定着したのだった。
さらに3年が過ぎた。ロンドンのミュージックシーンは目まぐるしく変化を続け、パンクの後のムーブメントであるニューウエーブが登場した。彼らは自らをニューロマンティックスと呼び、幾つかのクラブに集まっていた。その一つがブリッツだった。
まるで日常とかけ離れた不思議な光景が展開されていた。深海魚の暗い水槽の中を、いきなり色とりどりの照明を当てて生物を浮かび上がらせたと形容したら良いだろうか。
そこで再び思いついたのが、ストロボと長時間露光の組み合わせだった。人物に対しストロボを炊き、シャッターを1〜2秒開けたままカメラを微妙に揺らし、天井で点灯している赤や青、緑の照明の光を一枚に取り込んだ。
彼ら自身がすでに奇抜な衣装やメイクを競い合っているのに加え、揺らいだ光の線が、画面にさらなる不思議さを加えていた。一番始めに撮影したのが、彼らの中でも一番目立っていた美女だった。
ところが彼女は女性ではなく男性だったと知ったのは、彼から発せられた「良い写真撮れたかい?」というフレンドリーな声からだった。「僕はジョージというんだ!」
この彼が後のボーイ・ジョージとなる青年だった。これが僕がジョージを撮った初めての一枚だった。
撮影を続けていく中で長時間露光の思わぬ利点があった。それはカメラを構えたまま1〜2秒間、カメラを揺らす仕草が余程不思議に見えたのだろう。僕を見ると彼らの何人かが僕の仕草を真似しながらニコッと笑いかけてくれるようになったのだ。そんなことがきっかけとなり、彼らは次第に僕を仲間として迎え入れてくれたのである。
1979年から1981年にかけて、このクラブを撮ったカラー写真が僕の作品の一つとなり、ユニークな作風になったと共に、この時代の貴重な記録となった。
2016年にふと、ストロボを購入したのをきっかけに、自分の写真の歴史をストロボに特化して振り返った。その結果、ほとんどの写真を自然光で撮っている僕ではあるが、実は重要な部分をストロボが占めていたのを発見したのである。
ストロボは、写真家になりたい夢を追い求めていた自分にとって、まさに一条の光明として僕の写真人生を照らしてくれていたのだった。