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第60話 『学ぶ姿勢』

昨年のとある日、あるギャラリーに出掛けて行った。僕の自宅からほど良い距離にあり、自転車でも行けるので、毎回写真展が変わるたびに散歩がてらに立ち寄ることにしている。
その日は、最終日で、お客さんは僕一人、作者の方と二人の空間だった。作者の方は60代後半だろうか、定年を過ぎて写真を始めたという感じだった。
概ねの写真は風景で、とりわけ凄いと思わせるものや、前人未踏のめずらしいものが写っているわけではない。ごくありふれた風景、たまにヨーロッパのどこかの街なのか、小さく人が写り込んでいる。
僕もたまに使う、ペンタックスの645か67で撮ったものだろうか。
一見して、自己主張の無い、アマチュアの写真である。
すぐに帰ろうかと思ったが、折角来たのだから、作者の方とお話をしようと思って、椅子に座った。
作者の方は、話好きなのか、ご自分の写真について雄弁に語り始めた。
「美しいものが好きでしてね、海外へ出掛けて行っては、きれいな光景に出合うとシャッターを切るわけですよ。」

僕自身、美しいものが好きだし、多くの人が同じ気持ちを持っているだろう。そこまでは良いのだが、彼の写真には、残念ながら、これぞ美しい、と見る者を感動させるだけの力が写真に備わっていなかった。
おそらく、写真を撮る際に持つべき、こころを突き動かす感情が薄いのか、写真的センスにあまり恵まれていないため、どうしても出来た写真が平凡になってしまうのか、何かの原因があるのだろう。

「美しいものを称賛するお気持は分かりますが、美しいものをただ撮っても、余程写真に力が無い限り、見慣れた写真にしかならないんじゃないでしょうか。ご自分のスタイルを持つことも大切でしょうし、美しいものの裏にある、何か醜いもの、例えば風景なら、一見美しい大自然が、一転凶暴な力をもって天災を引き起こす事実とか、そんな少し掘り下げた理解を持つことも必要では、、。」と彼に言ってみた。
すると彼は、自分にははむかう人間がいるのだろうか、といった明らかに不快な感情をあらわにして言った。
「長いこと会社務めをしていましてね、人間の汚い面を十分見てきました。だから、美しいものしか撮りません。汚いものを撮った写真は大嫌いなんですよ!」
これはこれで、立派な経験値だと思った。
そして彼は続けた。
「こんなに美しいものを沢山撮っているのに、なんで僕はもっと評価されないんだろう?評論家はなにをしているんだ!この写真展にももっと沢山の人が駆けつけてきて当然なのに!このギャラリーの場所が悪いのかな、ニューヨークとかのギャラリーに展示すれば良いんでしょうけど、、。」

シリアスなテーマを追ったものの方が、世間からの注目度は高いかも知れないが、美しいものが撮りたいというのも立派なテーマだと思う。だが、彼の場合写真が余りにも平凡だった。
会話を続けていくうち、彼は写真の勉強が不足しているということに気付いた。

「例えば、英国の風景写真家、マイケル・ケンナとか、アメリカの例えば、、」と僕の好きな風景写真家の名前を挙げてみた。
「こういう写真家たちの風景へのアプローチをご存じですか?」
すると彼は一切こうした海外でも日本でも有名な写真家を知らない、と言った。
そうするうち、彼はテーブルの脇に置いてあったバイオリンに手を伸ばし、一曲聴いて下さい、と言ってバイオリンを聴かせてくれた。
どうだ!と言わんばかりに僕を見た。
「この前ね、近所の人たちに聴かせたら、大きな拍手を頂きましてね、僕は、立派な表現者なんですよ!」 明らかに彼は、自己陶酔しているだけなのだ。自分の写真やバイオリンがどの様なレベルであるのかを全く分かっていないのだ。

どんなテーマを追うのか、これはその作者のこころの声を素直に聞けば良い。作品とは作者のこころに即せば即す程、意味あるものになっていくものなのだ。
だが、制作の過程で、他の写真家や先人が残した作品を見て、力のある写真には何が備わっていて、自分には何が欠けているのだろうか、ということを真摯に見抜かなくてはいけない。
この謙虚な姿勢が、さらなる将来へとつながっているのだ。

自分しか見てないことの愚かさ、学ぶということの大切さ。そうしたことを改めて感じさせた、あるギャラリーでの会話だった。