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第69話 『My journey, My photography』

1973年、僕が23歳の時にアラビア半島の産油国、クエートを訪れて撮影した写真を、つい最近本格的にプリントしてみました。

ロンドンで1977年に開いたグループ展と、私の処女エッセイ集「女王陛下のロンドン」の中で3〜3枚発表しただけで、その後全くネガに手をつけていませんでした。

当時、僕は写真家になる夢を持って、イギリスに住んでいました。1973年9月に日本を離れてまもなく、石油危機、オイルショックという事態が日本で発生しました。アラビアの産油国が石油の輸出を制限したのです。燃料や工業の多くを石油に頼っていた日本はもろに影響を受け、トイレットペーパーが買えなくなるという風評が流れ、日本中のスーパーでトイレットペーパーが買い占められました。

イギリスの郊外、ブライトンという海に面した小さな街の英語学校に通っていた僕にも、遠く日本からのこのニュースが届き、産油国とは一体どんな暮らしをしているのだろう、出来ることならその実情を見てみたいという好奇心が湧き起こりました。

12月中旬、英語学校の学期が終わり、学生達はそれぞれの国に帰って行きました。
丁度私の下宿先に同じ英語学校に通っていたクエート人の18歳の青年が住んでいたり、同じ学校に数名のクエートからの学生がいました。
「もしかしたらクエートに行くかも知れないから、その時は宜しく!」と彼らに言って英語学校の終業の日を迎えました。
それから数日後、僕はクエートの飛行場に降り立ったのです。着陸のため高度を落とした飛行機の窓から、漆黒の闇の中にいくつもの製油所の煙突から、揺らめく赤い炎が見えました。他の乗客も窓に顔をこすりつけて、炎を見つめていました。

機外に出ると、12月中旬にも関わらず、日本の夏の夜を思わせる熱風が私を包みました。
コーランの響き、日本の戦後間もない頃の雑踏を連想させるような混沌とした目抜き通り、どこまでも続く砂漠と彼方の地平線。真っ黒い衣装に身を包んだ女性。
そのどれもが私にとって初めて見る光景でした。
その中でも一番の驚きが、僕を見た時の人々の反応でした。東洋人を見たことがないからでしょうか。赤いジャンパーを着て、長髪で、カメラを3台も持っている僕は彼らの好奇心の的でした。フィルムを交換するために2〜3分立ち止まる度、気がつけば20〜30人程の人が僕を取り囲んで僕をざわめきながら眺めているのです。
近くの家の中を見ると窓の中から、じっとこちらを見ている人影が見えたり、また道を猛スピードで走っていた車が私を見つけると音をたてて急停車し、窓を開けて身を乗り出し、僕が見えなくなるまで見つめているのです。

ある時、人々に囲まれていたら、警察官が走って来て、「ここは私が収めるから、今のうちに行け!」と身振りで僕を逃がしてくれました。
翌日、友人がサッカー場へ僕を連れて行ってくれました。サッカーはこの国ではとてもポピュラーなスポーツで、子供達の遊びといえば、広い空き地でサッカーをすることでした。この日、サッカー場には2000人程の観客がいたでしょうか。
誰か一人が僕に気付くと、瞬く間に「変った奴がいるぞ!」という叫びが波の様に観客に伝わり、競技場にいた全員がサッカーを見るのをやめ、僕を見て騒ぎ出したのです。
となりにいたクエート人の友人が大きな声で何かを叫び返し、やがて混乱は収束しました。
競技場を出た後、さっきは何て言ったんだ、と尋ねると、「彼は、日本から写真を撮りに来たただの青年じゃないか!不用意に騒ぎ立てをして、我々の品位を落とすようなことはやめよう!」と言ったそうなのです。そんな彼を僕は凄く心強く思いました。

 よくスナップを街で撮るには、「黒塗りのカメラを持ち、街に潜んで、あたりの空気を乱す事なく静かにシャッターを切る」などと言われますが、僕自身の存在を目立たなくするというのは全く無理なことでした。
 ならば、僕の彼らに対する好奇心と、彼らの異常なまでの僕に対する好奇心のスパークによって起こる瞬間を撮ることで、僕なりの写真を撮るしかないと思いました。

友人の案内でクエートの大学に行くと、大抵の講義は英語で行っていました。また、砂漠の中に温室を作り、数週間で一周するゴンドラで野菜を栽培する研究をしていたり、また生命線である、海水を汲み上げ、飲料水を作る工場には軍隊が護衛をしていたりと、砂漠でも生き残るための開発や整備が徹底的にされていました。

何日かが過ぎる中で、イギリスで一緒の英語学校に通っていたクエート人の学生とも一人一人再会する事が出来ました。その度、彼らは自慢の車に僕を乗せ、砂漠を走ったり、高級店が立ち並ぶメインストリートを何度も往復しました。このモダンなメインストリートがクエートで唯一の、トレンディーなスポットで、訳もなく車を走らせることがクエートの若者の流行なのでした。街には、SONY,TOSHIBAなど日本の企業の大きな色とりどりのネオンが連なって光っていましたが、日本車はあまり見かけませんでした。「日本の車は小さ過ぎて駄目だね、ガソリンは安い訳だから、買うなら大型のアメリカのスポーツカーに限るさ」というのが彼らの常識でした。

ある日、砂漠の真ん中の一本道をアリという友人の車で走っていました。主要道路でしたがアスファルト舗装ではなく、原油を砂漠に撒くだけである程度の固い道路が出来るそうなのです。馬力に任せ150キロは出ていたでしょう。突然遠くに小さな人影が見えました。

アリは急ブレーキを踏みました。遊牧民族ビドウインの子供が車のスピードを理解せず道路を横断したのです。止まった車からアリは窓を開け、大声で子供を罵倒し、道路に唾を吐きました。子供はただ怖がってちぢこまってこちらを見ています。僕は必死にアリを制しました。「やめろって!! あの子に罪はないよ!」文明を知らないビドウインの子供が不憫に思われました。

僕が宿泊させてもらっていた家は、イギリスで下宿が一緒だった友人の実家でした。平均的な地位のクエート人なのですが、まるでバッキンガムパレスの中がこんなだろうか、と思わせる豪華な調度品で溢れていました。これが産油国の潤いなのです。手を汚す仕事、つまり肉体労働はほとんど近隣諸国から砂漠を渡ってやってきた海外労働者が担っています。

イギリスに戻る日の前日、友人達とメインストリートを歩いていました。後ろから黒い衣装を身にまとった数人の若い女性が何やら言いながら、僕たちの後をついていました。「彼女達なんて言っているの?」と尋ねると、「日本人の僕がとても美しい、素敵!」と言っているとのことでした。僕はちょっといい気分でした。

その後、石油が出るということをどう思うのか友人たちに聞いてみました。彼らの全員が「石油が出る限り俺たちの鼻はあの月よりも高いんだ!」と言って夜空に浮かぶ大きな月を指差しました。 

 翌日、夜になっても人混みでごった返す大きなマーケットの様子を撮影しようと思いました。このマーケットがクエートの台所というか、ありのままの日常が一番感じられる場所だったからです。しかし、その喧噪とアラブの空気感に飲まれ足がすくみました。友人たちは、ここで写真を撮ったら、人々の反応がどうなるか見当がつかないから、同行するのは嫌だと言い始めました。僕は一人でマーケットの中に入って行くしかなかったのですが、その勇気がなく、撮影を断念しようか、中へ入って撮影を実行するかしばらく迷いました。

その結果、プロの写真家になるためにはこの恐怖を克服しなければならない、僕が背負った試練だろうと自覚し、「自分の気合いで奴らを圧倒しよう、奴らに文句は言わせない!」という捨て身の覚悟でマーケットの中に入って行きました。その結果特に暴力に見舞われる事もなくマーケットを一周してシャッターを切り続けました。二周する勇気は僕にはありませんでした。

マーケットを離れ、夜の道をしばらく歩いていると波止場があり、何隻もの大型タンカーが停泊していて、その中の一隻には日本語で船名が書かれてありました。それを発見した瞬間「あー、日本船がここまで来ているんだ!」とすごく安心と心強い気持ちになれました。そして、「僕は世界の何処だっていける!」という無限に沸き起こる強いエネルギーと勇気を抱けたのです。

数日後の夜、僕はヒースロー空港に着きました。明日からまた、イギリスでの生活が待っているのです。すんなり入国出来ると思っていたらそれはとんでもない間違えでした。アラブからの入国ということでテロ組織の一員と疑われ、別室に連れて行かれました。そこは大部屋で何十人もの国籍不明の外見を持った人間で溢れていました。異様な光景でした。呆然とする私に、見知らぬ男が話かけてきました。

「どこから来たんだ?」「クエートだよ、国籍は日本だ」「パスポートは持っているのか?」「勿論持っているさ」「じゃ、お前は心配ないよ、入国出来るだろう」と言って去って行きました。

2時間近く調べられ、あげくイギリスに1ヶ月滞在出来るビザしかもらえなかったのです。一ヶ月後にはイギリスを離れなければならないのです。だとすればどの国へ行けばよいのだろう、、。

写真家になりたい僕の旅はまだ始まったばかりだというのに、遠くの将来を見渡しても、いばらの道しか見えませんでした。

3台のニコンだけが私の頼りになる仲間でした。


このプリントは現在、神戸のTANTOTEMPOに6月5日まで展示してあります。近隣の方はどうぞご覧下さい。詳しくはこちらをご参照下さい。
http://tantotempo.jp/

また、兵庫県西脇市立西脇病院内で、「患者さんを元気にしよう」という目的で、僕の代表作30点を6月17日まで展示しております。詳しくはこちらをご参照下さい。
http://nshp.jp/modules/news/index.php?page=article&storyid=54

ハービー・山口