out
 

TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 > 第70話 『ある受賞、そして父へ』

第70話 『ある受賞、そして父へ』

さる6月1日は写真の日、この日は晴れて日本写真協会賞の授賞式が行われた日だ。 式が行われる田町の笹川記念館は大勢の写真関係の方々がつめかけて下さった。 国際賞、功労賞、学芸賞、作家賞、新人賞と合計10名の受賞者が表彰を受けた。僕はこの中の作家賞を頂いた。

それぞれの受賞者の代表作がスライドで数点ずつ上映された後、一人一人が壇上に上がり、表彰状とトロフィーが授与され、簡単なスピーチをした。2〜3分でという時間制限をされていたスピーチだったので、最低限のこと、でも僕の原点の様なことを手短かに話した。いつも トークショーで話していることではあるが、 ここにいらっしゃるほとんどの方が僕のトークショーにいらした事がないので重複にはならないと想像した。

「僕が写真を始めたのは、中学2年生の時でした。その頃生まれて2ヶ月で発症した カリエスという病気を抱え、孤独と絶望の毎日でした。僕の写真のテーマはおのずと、人の心が清くなる様な写真を撮りたい、人が人を好きになる様な写真を撮りたい、そうすれば社会は少しは優しくなって、僕の様な落ちこぼれの人間でも、生きていける隙間が社会に出来るのではないか、と思った訳です。

それから 6年が経ち僕は二十歳になりました。カメラを持って自宅近くの公園を歩いていると、バレーボールをしている 中学生くらいの少女が二人いて、彼女たちにカメラを向けていました。
そうしているうち、一人の娘が大きな声を上げました。 ボールが僕にぶつかりそうになったのです。僕は慌ててボールをよけましたが、 そのボールを打った娘が、僕を心配そうに見つめていたのです。
彼女の瞳の奥に宿っていた優しい、慈しむような光。こんなに美しい瞳を見たことがありませんでした。

その時、天からの啓示の様に思ったんです。
この美しい瞳を世界中を旅して撮っていこう。それが僕の写真家としての道だ。
そうすればいつか、僕が望んだ人が人をすきになる様な写真が撮れるのではないだろうか。

その頃、地元の友人達とバンドを組んでいて、ある時、洋風の名前を付けようというムーブメン トが起き、その頃尊敬していたアメリカのジャズ・フルート奏者、ハービー・マンから、ハービーという名前をニックネームとして頂いたんです。

その数年前、お医者様から、腰の骨も大分固まったので、激しい運動をさければ普通に生活が 出来るでしょう、と言われたこともあり、そうだ、拾い物の病気が治った後の残りの人生を、ハービー・山口という名前で生きてみようと思ったんです。芳則という本名はあるのですが、その名前は病気の過去と一緒に払拭して、全く新しい人生をハービー・山口という名前に託そうと。その名前に過去とは真逆な、夢があって、友達がいて、健康で、笑顔がある人間像をハービーという名前に込めたんです。以来、幾星霜、40年という時間が経ちました。

この受賞、本当にありがとうございます。これを機に、今後ますます人様のお役に立つ人間になり、希望を感じる写真を撮り続けたいという想いを新たにするものです。 最後に選考委員の皆様、普段より、個展とかパーティーとかでお会いしているのにも関わらず、いつもずけずけとお話しかけて、失礼を重ねておりました。
選考委員だと存 じ上げていたら菓子折りの一つも持って個展に伺ったものを、大変ご無礼を致しておりましたことをお許し下さい!」

恐らくこの会場では、僕の写真のテーマへの関わり合い、ハービーという名の由来を始めて知った方がほとんどだったろう。 会場から暖かな拍手が起こり、にこやかにほころんだ人々の笑顔が舞台から沢山見えた。
これだけ多くの写真関係者の方々の前で、自分の原点を語るチャンスは滅多にあるものではないので、とても良い場であった。 「ハービー?!それって外国人、ハーフ?なんかうさん臭い名前!」そうしたマイナスなイメージがあることも重々承知していたが、 このスピーチで大分誤解が解けたのではないだろうか。

あとは、僕が世界で一番人間を優しく撮る写真家になるべく、一層の努力がこれからの課題だ。それが認知された日には、 ハービーという響きはきっと平和の象徴になってくれるだろう。

実は、劣等生だった僕が、賞と名の付くものを頂戴するのはこれが初めてなのだ。このまま一生、無冠で活動するのも一つかっこいいか、という気持ちもどこかにあったが、2月のとある日、「先程、写真協会賞の選考会が終了し、全会一致で、ハービーさんが作家賞に選ばれました」という電話を受け取った。
「えっ 私でいいんですか??」とにわかには信じられなかった。ほっとしたのが正直な気持ちだった。 その電話からおよそ一ヶ月後、日本写真協会から正式な文章で受賞の知らせが来た。そこには受賞理由が太字で書かれてあった。

「デビュー以来一貫して変わらない瑞々しい感性と優しい眼差しで捉えた、 音楽家や俳優、市井の人々の姿は見る者の心に希望を与え、幸せにする。その長年のヒューマニティーあふれる作家活動に対して」

ミュージシャンを撮っていると、芸術写真とは一段下級に扱われる事があるのは 事実だったが、街の人々を撮った写真と等価に、長年同じスタイルで 広く人間像を描いていることを正しく評価して頂けたことはとても嬉しいことだった。

中学2年生の時に写真を始めてから47年、生まれて初めて賞というものを頂戴した。
賞を獲るやはり、長かったというのが偽らぬ感想だ。写真学校のスタッフや、雑誌の編集者、個展に来て下さるお客様は、異口同音に「えっ!ハービーさんって今まで何の受賞もしていないんですか?こんなにご活躍しているんで、 賞なんかいくつも取っていらっしゃるかと思ってました!」と驚かれる方も多いのだが、実は初めての受賞なのだ。

自分のペースでコツコツと続ける事、これが一番大切だろうか。 ちゃんと見て下さっている方々が写真界に必ずいらっしゃるのだから。ここまで続けるために多くの人が協力してくれ、 多くの人に迷惑をかけてきた。半人前の僕一人では決して出来なかったことだと、改めて感謝の気持ちを募らせるのである。

父へ

「結核にかかって治療中だった父さんが、生まれたばかりの僕を見て、可愛さのあまりだっこしたのが、僕の病気の始まりだったと随分後から母から聞かされました。赤ちゃんを抱かない方がいいですよ、感染の恐れがありますから、とお医者様に言われたけど、2ヶ月後、僕の病気は発症してしまったんだって。
腰が痛くて立ち上がることの出来ない赤ちゃんの僕を見て、また、コルセットをはめていつもじっとしていた僕を見て、きっと父さんは、自分がだっこしたせいで、この子の将来を奪ってしまったことを、とても後悔していたんだと思う。

だから、23歳の時、僕がロンドンに行くと行った時も反対もせず、10年近くも日本に帰ってこなくても、一度も帰ってこいと言わずに、仕送りもしてくれたんだね。写真家になんてなれるのかな、あの体の弱い子が一人で食べていけるのかな、とずっと心配していたんでしょ。
確かに病気になったことで僕は随分みじめな思いをしたけれど、父さんを一度だって恨んだことなんてなかったよ。だってね、病気のお陰で、僕は人の優しい写真が撮れる様になったんだ。何かのせいにするんじゃなくて、何かのお陰に置き換えてみるといい、と誰かが言ったけど、その通りだね。

1982年、僕が32歳でロンドンに住んでいた時、父さんは、66歳でこの世を去ってしまった。だから僕の最初の個展も写真集も見てないんだよね、それだけが心残りさ。ずっと僕のことが気がかりだったと思う。
それがね、この前ね、あんなに何も出来なかった僕が写真の賞をもらったんだよ!2年前に母さんも父さんのとこへ逝ってしまったので、この賞を見せる事は出来なかったけど、きっとそちらにも、この知らせが届いていると思うんだ。

二人で安心していいからね。この受賞を本当に多くの写真関係者の方々が喜んでくれているって、協会の人が僕に言ってくれたんだ。今僕は、とっても、暖かくて優しい人たちに囲まれているから、だからも う心配しなくていいんだ。これからもずっと応援していてね」

あなたの息子より


このプリントは現在、神戸のTANTOTEMPOに6月5日まで展示してあります。近隣の方はどうぞご覧下さい。詳しくはこちらをご参照下さい。
http://tantotempo.jp/

また、兵庫県西脇市立西脇病院内で、「患者さんを元気にしよう」という目的で、僕の代表作30点を6月17日まで展示しております。詳しくはこちらをご参照下さい。
http://nshp.jp/modules/news/index.php?page=article&storyid=54

ハービー・山口