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「朝日の中で」 東京 1995
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第41話 『 良い写真、自分らしい写真 』

 写真雑誌のコンテストの審査を現在3誌受け持っている。一回の審査にかかる時間は2時間半程。700〜800枚の応募写真の中からベスト10とかベスト20を選び出すには忍耐と神経がいる地道な仕事だ。しかし、同時に楽しみでもある。どんな興味深い写真に出会えるか、出会えた時にはそれが写真を撮る僕にはとても刺激になるからだ。そして、選ばれた応募者の嬉しさ、喜びがこれからの彼らの糧になることを想像するとやりがいのある仕事だと思う。それでは選ばれる「良い写真、自分らしい写真」とは一体どんな写真だろう。選ばれなかった写真との間にどのような差があるのだろうか。
 まず、700から800枚の写真の中で、選ばれるには他より優れた面を持っていなくてはならない。それはプリントが大きいとか、また、気をてらった写真でもない。作者が何に感動したかが解説を読むまでもなく自然に伝わってきて共感を呼ぶことに於いて優れている写真ということだ。 「良い写真、自分らしい写真」は、作者はきっと、このおばあちゃんの顔のしわに人生を見て感動したんだろう、子供の寝顔のかわいらしさに、この窓から差し込む光の美しさに感動したんだろう。この塀に刻まれた自然の模様が面白くてシャッターを切ったんだろう、ということが観る者に何の無理もなく伝わるのだ。
 写真を撮る時の作者のこうした感動は大きければ大きい程「良い写真、自分らしい写真」につながる可能性も大きくなる。中途半端な感動ではやはり写真の実力が弱くなるし、撮影に値しないといっても良いのだ。
 さて、ここで大きな感動に出会ったとしよう。この感動を遺憾なく写真として伝えるにはどうしたらよいか。ここから写真的にどう料理するかの何かしらの工夫が始まるのだ。モノクロかカラーか、望遠か広角か、もっと被写体に近づくべきか、この距離が最良か、どこを画面の中心にもってくるのか、、。工夫すべきことは様々ある。被写体に感動するのに、まず被写体を自分なりに理解し、より分けるセンスが問われるのだが、工夫の段階では絵心とか遊び心ともいうべきセンスが問われるのだ。
 つい先月こんな一枚に出会った。運動会の「玉入れ」を撮った写真だ。普通のセンスだと紅白の玉を投げて一喜一憂する人たちの表情を撮りたいと思う筈だ。しかし、この一枚の構図は、画面の中心が紅白の玉が舞う空中に向けられ、大部分の面積をこの空が占めているのだ。籠が画面の上辺に、人々の姿が画面の下辺にかろうじて捕えていて、最小限の説明を果たしている。人々の表情を撮ろうとする固定観念に縛られることなく、空中を乱れ飛ぶ紅白の沢山の玉に作者は注目したわけだ。その結果、写真はビビットになり、人々の表情さえ想像させるのに成功した。この目の付けどころがとても斬新に思え、それを反映した絵心に感心して僕はこの写真を選んだ。独自に感動したものに素直になって撮影した結果だ。
 こう考えると先に工夫という言葉を使ったが、作家の思想にもよりけりだから一概には当てはまらないものの、少なくとも僕の写真の様なストレートなスナップ・ポートレイトに限れば、工夫は大切だが過剰は禁物で、自分の目の付けどころとか感動に正直であることがまず何より大切になる。過剰になると悪く転んだ場合、工夫ばかりが目に付き、肝心の感動より工夫が画面上で目立ってしまうという本末転倒になってしまうのである。僕の場合、工夫とは、1、被写体を画面のど真ん中に置かない。2、なるべく逆光や斜光を使って立体的な光を拾う。3、一番好きな表情を的確なタイミングで掴む。この3点しか撮影時には考えていない。後のことはその場での直観とか本能に任せっきりだ。そうした僕の写真にはそれなりの限界があると思うが、それが、ずっと続けてきた偽らぬ僕のスタイルなのだ。しかし、同時に工夫の上に完成した写真があることを忘れてはいけない。昆虫写真家は昆虫と同じ目線を得るためにカメラやレンズまで工夫を凝らした末に、自作の機材を制作するに至り思いのアングルを手にいれているし、何人かの写真家は、本来被写界深度を深くするためのアオリを逆用して、わざと浅い深度を使うことで、独特のファション写真や風景写真を見出した。また、高性能なレンズやカメラの逆を狙い、トイカメラやピンホールカメラで自分の世界に到達した写真家もいる。渋谷にあるロゴス等の洋書も扱う書店の写真集売り場には、これでもかと工夫を凝らした作品が世界中から集まっていて実に興味深い。そうした作品の中で写真家は持てるすべての感覚を研ぎ澄ましているのだ。だが一番問われるのはどの様な手法を使おうが、心にグッとくる力を写真が持っているか否かだ。
 先々月だったか、ある月刊写真雑誌のコンテストページに素敵な一枚を見つけた。父が小学生ぐらいの自分の娘さんを撮った写真だ。娘さんは遊園地の回転する空中ブランコに乗っていて、撮影者である父のも近くのブランコに乗っているのだろう、同じ目線の高さで撮られている。娘さんは腕を広げ気持ち良さそうに風とスピードに身を任せている。その表情が清々しい。背景には空と地上にある森が写っているだけだ。大した工夫の跡は見られないにもかかわらず娘さんの心持、父の娘さんに対する優しい心が爽快な画面の中に見事に表現されていた。この写真は確実に人々の心をポジティブにし、見飽きない力を持っていた。過去数カ月で一番清々しく好きな写真だった。さりげなく撮った写真でもこうした力を持ち得るのだ。
 「ぱっと見はひと目を惹くかもしれないけれど、本当に心から感動はしないなあ、、。」と言われては元も子もない。 結論を急げば、「自分独自の感動を素直に写真にすることからすべてが始まる」。単純なこの一言に「良い写真、自分らしい写真」へのきっかけが隠されているように思う。