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第30話 『 手法と理想 』

僕が写真に興味を持ち始めた中学2年の頃、作り上げた、いわば演出された写真に対し、面白いとは思ってもそれ以上の刺激を受けることはなかったという記憶がある。写真の特性の一つは、一瞬の出来事、光景を永遠のものとしてフリーズさせることである。その特性を最大限に生かしているのを身近に感じたのはいわゆるスナップ写真だった。役者やモデルを使って特異はシチュエーションを作り写真にするという行為は確かにあるだろう。だが純粋なスナップ写真を見てしまうとそのリアリティーの小気味良さにより惹かれてしまうのだった。スナップ写真の持つリアリティー、これは大きな魅力のひとつだ。これが僕の写真の原風景なのだ。現代は、僕が写真をはじめた1960年中頃と違って表現方法は多種多様だ。写真をする者には実に多くの選択肢が与えられている。スナップという言葉自体どこか古色蒼然と聞こえるではないか。そして、一昔前なら完全に露出過多で失敗作と扱われたであろうカラー写真が、現代ではハイキーで洒落た作品として時代に合っている。さらに、なるべくカメラブレしない様に撮り、粒子を荒らさぬ様、現像処理に細心の注意を払い・・・、また諧調豊かにプリントするのが二昔前の主流であったが、それをすべて否定し、粗粒子で極端な黒と白が画面の大切な要素となっている作風が、強い写真としての印象を現代では得ている。この強いコントラストを好む写真家の一人に先日お会いした。彼は「いろいろな処理を試した結果、これが自分の生理に一番合っていて気持ち良いという結論に達したんです。」と述べた。この言葉に大切なキーが含まれている。より綺麗な印画が気持ち良いと感じる人はそれに従えば良いし、粗粒子が気持ちよければそれに従えば良い。演出、非演出も自分の生理に合っているものを選択すれば良いのだ。おそらく僕は今までの通り、微粒子で諧調豊かな優しいプリントを追求し演出された写真より、スナップ的ポートレート的、私的ドキュメンタリー的な作風を続けていくだろう。このスタイルがいわば僕の気持ち良い手法なのだ。そして手法と対を成して大切なのは、写真の内容であることを忘れてはならない。

フランスの写真家でブーバという人がいる。僕の好きな写真家の一人で写真集を何冊か持っている。ブレッソン、ドアノー、ロニと同じくパリを愛し、世界の人間を撮り歩いた。幾何学に最大の神経を使って撮影していたブレッソンの作品とはまた違い、ブーバの作品にはどこか優しく暖かい風が吹いている。20年以上前、写真展のため来日したブーバに会う機会を得た。このチャンスに僕は自分のロンドンの写真集を彼に手渡した。その時彼はこんなことを言った。「写真というのはアイデアとか手法を全面に押し出しては駄目だ。アイデアとか手法を先行させるのではなく、それらを超えたところで言葉では言い表せない感動を伝えなくてはいけない・・・。」現代に生きる写真家に対しての発言だっただろう。 確かにアイデアとか手法が全面に出てしまうと、パッと見は良いが沢山見ていると飽きも早い。音楽に例えれば「流行り歌」の様だ。流行歌は時代の移り変わりと共に消費されてしまう。自分の生理に合っていて、じわりと人の心に感動を呼ぶ、時代を超え永遠に愛される作品が理想ということなのだが。