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第54話 『 1 月 』

一月は波乱に富んだ月だった。昨年のクリスマスあたりに、新型インフルエンザに感染したらしい。 12 月28日に 3 名の食事会があり、家に帰って来てからというものずっと体がだるく、翌日、翌々日としんどかった。熱を計ると39.3度もあった。目黒区役所内の休日診療所に行くと、すぐに検査をしてくれ、新型インフルエンザと判明し、タミフルをもらった。新年が明けても寝正月である。やっと体を動かす気持ちが湧いてきたのは3日になってからであった。最悪の2010年の始まりだったのだ。

数日後からの僕のスケジュールは埋まっていた。写真コンテストの審査が毎日のようにあったのだ。その一つがキャノンの審査だ。毎月一回、昨年から始めた審査だ。これがなかなか大変だ。というのは毎回1500〜1600枚にも上る写真を一枚一枚見なければならない。2時間以上、集中して多くの写真を見るのはかなりのエネルギーが必要だ。しかし、上位に選ばれる写真にはパワーとか上手さがある。そうした写真をみていると、「なるほど!」と刺激をもらえるし、勉強になるのだ。そうした優秀な写真に出会えるのが大きな楽しみである。

翌日はリコーのコンテストの審査があった。銀座にあるリコー、リングキューブでぼくを含め3名の審査員が参加した。審査員が複数だと気が楽だ。そして、「この方はこう言う見方をするのか!」というのが知れて楽しい。特に今回の審査では、川上さんという若手のデザイナーが加わった。ニューヨークの権威ある賞を3つも受賞しているそうだ。デザイナー界のホープだ。彼が審査の終盤とても興味深いことを言った。「ブックに入れたポートフォリオが送られてきていますよね。まずブック自体の品質を見るのですよ。ちゃんとした高額のブックを買って、写真を入れてきた人は、それだけで自分の写真を大切にしているという意気込みがあって、それが伝わるのです。そこらの文房具屋で買った安物のファイルに、値札もはがさないまま入れてくる写真はまず駄目ですね…」

不思議なことに彼の発言の前に、3人の意見が一致して一位に選んだ、夜の街を撮ったモノクロの作品群は、偶然なのか必然なのか、ちゃんとしたアメリカ製のブックに入っていたものだった。

審査には、時にこうした新しい発見があるのが大きな魅力だ。

16日は忙しい一日だった。

まず、午前10時から、大阪のSC放送のテレビのインタビューを1時間半受けた。いままでの人生で一番の「覚悟の瞬間」を聞き出すのが番組のテーマだ。ここで嬉しかったのは、インタビューをしてくれた番組の川合ディレクターが、事前調査のため、目黒のブリッツギャラリーで開催中の写真展に、先週のうちに行ってくれていたことだ。写真集もちゃんと買ってくれたそうだ。やっつけ仕事が多そうなテレビ取材だが、彼らの丁寧な仕事ぶりには感心した。問いかけてくる質問も的を射ている。まごころがあって、優秀な人はいるものである。僕のインタビューが終わると、午後にはジャイアンツの上原投手のインタビューだそうだ。結構な有名人が次から次へとゲストとして呼ばれているのだ。僕もこの番組に呼ばれて嬉しいな、と満足感を味わった。

11 時半過ぎにはフリーになったので、愛車、スエーデンの車、サーブを駆って横浜赤レンガ倉庫に移動した。午後 1 時から4時まで僕のワークショップが行われるのだ。これは手弁当での参加だ。高速が空いていて移動はスムーズで 12 時半前には横浜に到着した。開始まで少し時間があったので、近くにあったフレッシュネス・バーガーで食事をした。

横浜は 1862 年、下岡蓮丈が日本初の写真館を開設したという、写真にゆかりのある場所だ。それにちなんで、横浜フォトフェスティバルというイベントが企画された。この企画内に僕のワークショップも組み込まれていた。ワークショップの参加者は 10 名。参加の応募を開始するや真っ先に僕の教室は 10 名で埋まってしまったということだ。「ハービーさん!タレント並みの人気ですね!」と主催者が半ば本気で僕をおだてた。ワークショップの始めの一時間半は、 10 名を連れて野毛の街を歩き、人をスナップするという撮影実習だ。集まった10名と対面した。男女ほぼ均等で、ライカやローライといったフィルム派が何人かいた。僕は、ライカMPに35ミリ、M3に50ミリを付け、T−M AX 400を詰めてきていた。同じ時間ワークショップをする知り合いの写真家に会った。僕の生徒さんを見るや、「へー ハービーさんとこは皆若いなー!僕んとこはもっと年代が上ですよ、交換しましょうか、。」と冗談を言った。

ぶっつけ本番の街を撮る実習は難しい。撮影を受け入れてくれる人々に上手く出会えれば良いが、そうでない時は落胆だけが残ってしまう。そうならないよう、主催者に、野毛の街の行きつけの店を数件事前に撮影の許可を取ってもらっていた。行きつけのラーメン店、花屋さん、インドカレーレストランなどである。ここらを目指して歩き、後は運を天に任せ、その場でアポなしで声をかけて撮らせて頂くのだ。

最初にラーメン店に向かった。営業中の小さな店だ。カウンターだけがある。10名一緒に入れる大きさではないので2名ずつ交代で店内に入った。 5 分程撮影して次の人に交代だ。素早く撮影しなければ営業の邪魔になってしまうから気をつけなければならない。

次にカレーレストランに行った。ナンを焼く日本に6年住んでいるというインド人の青年がとてもハンサムだったので、女性の参加者優先で店内に入ってもらった。

次に街を歩いていると、豆腐屋さんがあった。そこのまだ若いご主人らしき方が、白い前掛けと白い作業着を着ていて、とても絵になっていたので、「その姿、カッコいいんですけど写真撮らせて頂けますか?」と僕が声を掛けると、「ちょっと待ってて。」と言って店の奥に姿を消した。

5分経っても姿を見せない。「売上に協力しよう !  豆乳飲む方!」と生徒さんを促し、数名が豆乳を買って飲んだ。生のお豆腐の味がした。彼は撮影が厭で引っ込んでしまったのだろうか。このまま退散した方が良いだろうか、と思い始めた。

10分以上経っただろうか。さっきの若いご主人がやっと現れた。なんと小学生のご自分の息子さんに同じ白い作業服を着せて、 2 人でポーズをとってくれたのである。この協力してくれたお父さんの心意気に一同感激し、シャッターの嵐を浴びせた。

お礼を丁寧に何度も言って豆腐屋さんを辞し、通りの角を曲がった。そこはクロネコヤマトの集配所だった。クロネコの緑色の制服というか作業着を着た二人の青年に声をかけると、一人はまんざらではない表情で立ち止まってくれて、もう一人は恥ずかしいのか奥に引っ込んでしまったきりだった。こういう時は深追いはしてはならない。立ち止まってくれた人を撮られて頂こう。しかし、世の中とは良く出来たものだ。直後、長身のハンサムな若手が配達から丁度帰ってきて撮影に加わってくれたのである。

一時間半はあっという間に経った。一同は赤レンガ倉庫に場所を移し、僕のトークショーに移った。小部屋が用意されていて、全員着席して、今日の撮影実習のことを振り返ったり、僕の写真論を述べた。皆満足そうだったが、今日持参したポートフォリオを見る時間がなかったので後日また集まることにした。

4時になった。僕は赤レンガ倉庫を辞し、車で谷中に向かった。 5 時半から、谷中の新しいカフェで写真展をやっている現場で、ボランティアのトークショーが組まれたいた。店に入ると20席がお客さんで埋まっていて、今は遅しと僕を待ちうけていた。手違いでスライドショーの準備が出来ていなく、ということは、10分の休憩を除いて、8時近くまで喋り倒さなければならなかった。かなりの重労働である。しかし、トークショーが終わっても、なかなか帰ろうともしないお客さんの満足そうな顔をみていると、疲れは吹き飛んだのであった。

一月中旬には、16歳のアメリカ人と日本人のハーフの女の子の撮影があった。通常、僕の仕事の9割の被写体は男性であった。だから16歳の可愛い女の子の撮影は新鮮であった。とこるが撮影当日はすこぶる寒く、肌を刺す冬の風が吹き荒れる千葉県幕張の海岸で、ほぼ水着姿の彼女は、いやな顔一つせず、明るい表情をカメラと僕に向けてくれていて、そうした彼女のプロ根性に僕は敬服しっぱなしだった。僕が16歳の頃だったらこんな過酷な撮影は耐えられなかっただろう。

主に、一月のスケジュールで思いだすイベントはこの他にもいくつもあるが、それは次回にまわすとして、無事一月が終わろうとしている。

色々な人に会い、貴重な経験をした。体力、精神力の維持にきつい日もあった。しかし、こうしたことをこなす度に、着実に見識を広めている自分自身を感じ取ることが出来たのである。

一歩上のレベルへ昇ること、それが人間に課せられた日々の挑戦なのである。そのきっかけをくれる毎日の仕事に感謝しなければならない。